介護する社員の「生き生き働く」を考えるビジネスケアラーが「自分らしく働く」を見失わないためにできることとは 広島大学大学院教授 児玉真樹子氏

kodama-sama.jpg介護の担い手のボリュームゾーンは、職場で中核的な役割を担い、一定のキャリアを築いてきた40代以降の人々です。こうしたビジネスケアラーは、介護が始まった時「自分らしく働けなくなった」と感じ、仕事における自分の存在意義を見失ってしまうことがあります。
家庭と仕事を両立する人の心理状態などを研究する広島大学大学院教授の児玉真樹子氏に、介護によって揺らいだ職業的アイデンティティを立て直すための方法などについて聞きました。

「思うように働けない」葛藤がアイデンティティを揺るがす

――働き手のアイデンティティは、どのように形成されるのでしょうか。

職業的なアイデンティティが確立した状態とは、自分がどんな仕事をしたいのかを理解しそれを実現している、つまり自分らしく働くことができている状態です。昨今は先行きが不確実な「VUCA」の時代を生き抜くためにも、ビジネスパーソンが職業的アイデンティティを確立し、それをベースに自律的なキャリアを築くことの重要性が高まっています。

職業的アイデンティティがどの程度確立されているかは、三つの側面によって把握できると考えられます。一つは自分が仕事上の役割を果たせているという「役割獲得感」、二つ目は、仕事を通じてやりたいことを実現できている、という「個人的な実現感」、そしてもう一つが、うまくキャリアを築けていないという「喪失感」です。家庭や職場で起きるさまざまな出来事によって「今までのように働けない」と本人が感じると、職業的なアイデンティティは揺らぎ、喪失感が高まって、ほかの二つは低下するのです。

――職業的アイデンティティを揺るがす「出来事」とは、どのようなものでしょうか。

就職活動がうまくいかない時や、新入社員が仕事の厳しさを知って「こんなはずじゃなかった」という「リアリティ・ショック」に直面した時、加齢に伴いこれまでのように仕事ができないと感じるようになった時などです。さらに自分の病気や家族の介護、育児などプライベートな事情も含まれます。もちろん介護や育児と仕事との両立には、時間管理のスキルや複数のタスクを併行処理する能力が高まるなど、ポジティブな側面もあります。

しかし中には、育児や介護があるため思い切り働けない、あるいは逆に仕事のせいで育児や介護に十分時間を割けない、といった不満を抱く人も出てきます。こうしたネガティブな結果を招いた時、家庭と仕事の両立に伴う葛藤(ワーク・ファミリー・コンフリクト)が生まれます。育児について分析したところ、男女ともに葛藤を抱えるほど喪失感が高まる、すなわち職業的アイデンティティの確立度合いが低下するという結果が出ました。介護でも同様の結果が生じると推測できます。

「私」はなぜ働きたいのか 根源的なメンタリングで自分らしさを取り戻す

――ワーク・ファミリー・コンフリクトによってアイデンティティが揺らいでしまった人への、有効なサポートはありますか。

アイデンティティが揺らいだ働き手は「制約を抱えつつ、自分らしく働くにはどうすればいいか」を考えざるを得なくなり、キャリアも大きな転換期を迎えます。この時、仕事と家庭の両立に関するメンタリングを受けることで、葛藤が和らぐと考えられます。

例えば育児なら、育児を経験した先輩がメンターとしてメンティー(メンタリングを受ける人)の悩みを聞き、仕事と育児の両立のコツなどを伝授するのです。職場に限らず学校の先輩や友達など、プライベートな関係性の中でもメンター役を果たす人がいれば、同様の効果は得られます。

ただ我々の研究では、このような両立に関わるメンタリングはメンティーが「何とか働き続けられそうだ」と思えるようになり、就業継続を促すことには役立ちますが、自分らしく働けるという実感を高めるには至りませんでした。

――自分らしい働き方を取り戻してもらうためには、どうすればいいでしょう。

仕事に関わるメンタリングを通じて、育児や介護などの事情から離れ、一人の働き手として自分はなぜ働きたいのか、仕事を通じて社会でどんな役割を果たしたいのか、という職業的アイデンティティの根源的な部分について考えることです。ただこの時メンターが「成長したいならこの役割に手を挙げてみてはどうか」「あの仕事もしてはどうか」と挑戦ばかり勧めると「家庭の制約があるせいで行動できない」という本人の葛藤を高めてしまう恐れがあることにも、注意すべきです。

また育児の場合は20~30代の若手・中堅社員がメインですが、介護の中心世代は40代以降で、メンターになることそのものが、本人の職業的アイデンティティ確立に重要になる年代です。実は人の話を聞き、それに対する思いや過去の経験を伝える行為は、自分の状況を整理しキャリアを見直すことに大きく役立ちます。介護世代においては、むしろメンターになる方が大切かもしれません。

――その時々の揺らぎにつながるような危機を乗り越えるためには、どのようにしたらよいでしょうか。

危機に直面してもそれを乗り越えてキャリア形成を促す心理的特性として「キャリアレジリエンス」があります。世間には「キャリアレジリエンスプログラム」も存在しますが、同時に先行研究によって、キャリアレジリエンスは何かに失敗した時自分自身を振り返る、あるいはうまくいった経験から学ぶなど、内省によって形成されることが報告されています。

「自分らしく働くこと」はすべての働き手に共通の指標

――なぜ職業的アイデンティティを研究されるようになったのでしょうか。

大学卒業後、企業に就職した時、会社に命じられるまま働いても転職に必要なスキルは得られず、望むキャリアも実現できないのではないかという問題意識を抱きました。そこで、キャリア形成を研究するため大学院に進学しました。

「キャリア」を測るには、昇進の度合いや専門性の高さなどさまざまな指標がありますが、中でも自分らしく働くという「職業的アイデンティティ」は、業種や職業の特性を超えてすべての働き手に共通する指標ではないかと考えました。そこで働き手が職業的アイデンティティを高めるには何が必要か、揺らぐような危機に直面した時どのように乗り越えられるかを研究し始めたのです。

――企業は、社員の自分らしい働き方を支えるという意味での「職業的アイデンティティ」をあまり重視していないように感じます。

企業の多くは、昨今注目されるプロティアンキャリアの形成で重要な役割を担う「自分の能力ややりたいことを明確化する」という職業的アイデンティティの概念を重視していると感じます。つまり経営的な視点から、社員の能力を最大化する目的で「職業的アイデンティティ」の確立に取り組んでいるわけです。

一方で「自分らしさ」は、その人の状況によって揺らいだり確かなものになったりする、とても把握しづらい概念です。働き手をサポートするにはカウンセリングのような専門のスキルも必要で、企業ができることには限界もあります。

企業としては、社内FA制度など、社員が望む仕事に従事できるような仕組みを準備することが、自分らしい働き方を支えるのではないでしょうか。

それ以外にも面談などを通じて、社員に「仕事を通じて何を実現したいのか」を考えるよう促すことです。社員が常にキャリアデザインを考えるようになれば、いざ介護や育児と仕事との両立に伴う葛藤を抱えた時も、「自分らしさ」を問い直しやすくなるはずです。


聞き手:大嶋寧子
執筆:有馬知子