女性役員に聞く昇格の実態株式会社東京個別指導学院 取締役 井上久子氏(後編)

6)創業社長の引退と経営者としての脱皮

2010年、取締役 事業基盤本部長に就任。創業社長が経営を退き、二代目の社長に変わり、東京個別指導学院も第二フェーズに入ろうとしていた。そこで担当する仕事には、苦手なITを駆使しなければならない部門も含まれていた。だがそこでは、若手に教えを乞うこともいとわず、情報システム、顧客管理、総務、人事などの統括を行った。

かつて、教室運営を一緒に担ってくれたアルバイトの講師たちが、大学卒業と同時に入社し、同僚として再び支えてくれた。

そして2012年に、経営企画部長も経験した。
経営企画部は、井上氏にとってある意味初めてのスタッフ部門と言える。これまでのポジションがすべて教室の視点からの仕事だったのに対し、経営企画は本部からの視点で教室を見る経験となった。財務経理以外のすべての部門を経験したことで、各部門の視点の違いによる言い分の本質も理解できるようになった。それは、井上氏の経営者としての大きな財産になった。

「教室と本部両方のトップを経験してみて物事を少し引いてみるようになりました。どんな時でも、結局、目的は何かというところに立ち返って考えることができるようになったのです」

そして、同年5月に三代目の社長が就任し、少し苦戦していた業績も回復した時期、井上氏は、経営企画部長と神奈川事業部長を兼任した。

「当時の三代目社長は、取締役だからと仕事を限定するのではなく、会社にとって必要だといわれれば、いつでもどこでも、仕事を兼任してでもやるからこそ、経営陣に名を連ねるまでになるということを、みんなにわからせたかったのだと思うのです。それを感じていたので、体力的には厳しくても本部と教室の兼任をやり通しました。朝9時から本部で会議をやって、夕方6時くらいに本部を出て神奈川事業部に行き、夜11時くらいまで働きました。しかも教室は土日も開いています」

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スタッフとラインの兼任は体力的にはもちろん、180度異なる視点で仕事をしなければならない点で、精神的にも大変であったことは想像に難くない。しかし、当時の三代目社長は、圧倒的な業績を出せなければ上に立つことはできないというベンチャー時代のスタンスに立ち返り、大きな期待の下に井上氏に大きな目標を与えたのであろう。こうした井上氏の奮闘が、会社業績の回復を牽引したのであった。

また、2014年5月に齋藤勝己氏が同社の四代目社長に就任したことについて、井上氏は、「入社以来長い間、苦楽をともにしてきた人物でありますし、新たな気持ちで新社長を全力で支えていきます。これまでの様々な経験が、今後ますます活かせるのではないかと張り切っています」と力強く語った。

7)期待を超える目標

井上氏が今のポジションに至った背景には、やはり創業社長の存在がある。創業社長からの絶え間ない仕事のオファーがあったからこそ、井上氏は必死に結果を残そうともがいてきた。そしてそのプロセスでは、社長との激論が幾度も繰り広げられてきた。

「もう大変でした。私の指摘に社長が怒って、また私が言いかえして泣きながら訴える。経営会議のメンバー全員が騒然としてそれを見守る……なんていうことがしばしばありました」

しかし、両者の間には強固な信頼関係があった。井上氏には、厳しい要求によって育てられたという実感があるし、社長も、意識的にそうしていたのではないかと思える節がある。

「やはり創業社長は、人を育てるときのポイントを見つけ出す力が優れていたのだと思うのです。大きな期待をかけてくださいましたし、評価もいただきました」

事業拡大のために厳しい要求が次々と繰り出される中、辞めていった同僚は多い。だが、井上氏は、社長の厳しさの中に自分のモチベーションを上げる材料を見つけることができた。

「例えば、辞める人が増えて雰囲気が悪くなっている時に、『家庭を持たれている方には厳しいから、仕組みを変えたほうがいいのではないですか?』と言ったことがあるのですが、そうすると『じゃあ自分で変えればいいだろう』という風に返されるのです。おそらく、期待なのですよね。そして私は、『じゃあ変えれば』っていわれると、「やればできるという自信」から『わかりました』と答える。たぶんそれが社長なりの私に対する期待のかけ方だったのだと思います」

社長の厳しさと期待は、井上氏だけに向けられたものではなかった。だがそれを、誰もが受け止められたわけではない。

8)期待に気づくことができるか

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「期待されている」ということに気がつけないままだったら、続けられただろうかと井上氏は言う。

「もしかしたら『井上は逃げなかった』と思ってもらえていたのかもしれません」

ただ、創業社長の厳しさを受け止め、応え続ける一方で、井上氏には「自分の目標」があるという自負もあった。道路標識に出ている主要な町すべてに教室を出すのだという強い想いを抱いていた。

「社長からもらった目標よりも自分がやりたい目標のほうが高かったのです。ただ、私のやりたいことと社長がやらせたいことがたまたま一致していたのか、社長がその気にさせるのがうまかったのか、本当のところはわかりませんが」

時にはぶつかることも恐れず、困難に立ち向かい続けたことが、井上氏を今のポジションに導いたことは間違いない。
ハードな日々の中で、井上氏に立ち向かう力を与えてきたのは、まさに「やればできるという自信」をもって「チャレンジする喜び」を感じ続け、「夢を持つ事の大切さ」を実感するという、理念に忠実な成功体験の積み重ねだったのかもしれない。
そしてそこには、なによりも教室に通ってくる生徒たちの笑顔があった。

「赤点すれすれでぐれかけていた生徒さんがいたのです。教室に通い始めて最初にいい点数を取った時に、おばあちゃんが『おまえもやればできるんじゃないの。大学にも行けるかもしれないね!』と喜んでくれたのをきっかけに一念発起して頑張り始めたのです。会社で叱られて、ボロボロな気持ちで教室に行ったある日、その子が『受かった!!』と報告に来てくれまして。そうやって勇気をもらって、また頑張ろうと思う。その繰り返しでしたね」

「やればできるという自信」を持つことが大切だと生徒に向かって繰り返し言い続けてきた。それは意図せずして自分自身を鼓舞することにもなっていた。井上氏は、日々真剣に社員や講師に向き合い、生徒に伝えてきた自分自身の言葉にプロモーションされたのかもしれない。今はもう井上氏の言葉になっているのだが、その言葉は、かつて激論を交わした創業社長の言葉だった。

TEXT=森裕子・白石久喜 PHOTO=刑部友康

井上久子 プロフィール

株式会社東京個別指導学院 取締役副社長 人財開発本部長
略歴:大学卒業後、一時的に教職として勤務
1995年 東京個別指導学院入社
1999年 神奈川県事業部長就任
2001年 首都圏事業部長就任
2002年 事業本部長就任
同年11月 取締役就任
2005年 取締役事業本部長
2006年 代表取締役副社長就任
2007年 人財本部長(兼任)
2010年 取締役 事業基盤本部長
2012年 取締役 コンプライアンス担当
2012年 取締役 経営企画部長
2012年 神奈川事業部長(兼任)
2013年 取締役 経営企画本部長
2014年1月 取締役 人財開発本部長(現任)
同年5月 取締役副社長(現任)