才能を開花させた人たち01. TOTO 衛陶開発部技術主幹 柴田信次氏

理詰めの上司とぶつかりながら
研究者として大切な考え方を学んだ

柴田氏が入社したのは1987年。大学で電子工学を専攻した柴田氏は、その年できたばかりの商品研究所に配属された。2年目に、研究所に“タンクレスの便器”というテーマが与えられ、柴田氏も「電気屋としてではなく」そのプロジェクトに入ることに。当時の研究所は、大学の研究室のようにフラットな風土でいくつもの研究テーマが動いており、若手も様々なことに挑戦させてもらえる環境だった。“タンクレスの便器”プロジェクトには、専門の研究者がいなかったが、衛陶事業部の手ほどきを受けた後は、基礎研究から独自に進めていった。 この時、プロジェクトリーダーとして出会ったのが、牧田厚雄氏。のちに柴田氏にとっては師といえる存在となる人だ。 「牧田さんは物理学科出身の変わり種で、なんでもまず理屈が大事という方でした。とにかく理詰めで説明されたり質問されたりという毎日で、『手を動かしたい』『やって試したら何か出るだろう』と思う工学系出身の自分にはとても苦痛だったのですが、今となってはそれがよかったと思います」と柴田氏は語る。牧田氏から、「便器で汚物がちゃんと流れる仕組みがわかるか」「サイフォンとは、どういう意味か」などと質問され、理詰めでとことん考えてから手を動かすほうが無駄なく進むことを理解していった。“タンクレスの便器”実現のため、当時13リットルの水を使っていたものを、どうすれば少ない水でスムーズに流せるのか、そのメカニズムを徹底的に考えた。

異分野の若手が集まり自由闊達なワイガヤ
そして、「見える化」のための秘密兵器の開発

プロジェクトメンバーには、機械、化学、電気などを専門とするメンバーがいた。先生がいるわけでもなく、上司からやり方の指示が来るわけでもなく、ああでもない、こうでもないと、いわばワイガヤで進めていく。メカニズムを考え、実験装置を作り、やってみて修正しての繰り返し。アイデアは出てくるが、結果としてなにが正しいのかよくわからない。ならば試してみようということになった。流れを目で確認するため、柴田氏は構造が外からわかる透明の便器を作り、便器の「見える化」を実現させた。透明便器は、その後も製造現場との調整をはじめ。さまざまな場面で絶大な効果を発揮する秘密兵器となった。 「研究所のある茅ヶ崎の近くには、自動車の部品メーカーの工場があったこともあり、透明便器に必要な精巧な部品の試作加工に協力してもらえたのが大きかったですね」 そして、3年近くの基礎研究の成果をもとに、1993年タンクレス節水便器「ネオレスト」がこの世に誕生した。

同世代の優秀な同僚たち
自分はどこでやっていこうか

研究所での最初の大きな体験ともいえる初代「ネオレスト」の開発、ここでは同世代の2人とのよき出会いもあった。1人は林良祐氏で当時からマネジメント力があるリーダータイプ、もう1人の新原登氏は化学の専門家で、当時はまだ手がける人がほとんどなかった流体シミュレーションを手探りでやってみせるような実力者。彼らを見て柴田氏は心から尊敬すると同時に、彼らと同じことをするのではなく、自分は自分なりの専門性を掘り下げていこうと考え、便器機能に特化していった。 「この領域をそんなに突っ込んでまじめにやっている人は少ないし、TOTOの中でトップ級になれれば、世界でも戦えるかな、と」

1994年、次なるテーマ、
アメリカの規制をクリアする節水便器の開発メンバーに

便器機能の専門家として進み始めたころ、「ネオレスト」の次のテーマとして、アメリカの規制に適合した6リットル節水便器の開発が技術的に可能か、検証するという話が持ち上がった。その大役をアメリカプロジェクトのリーダーの小林博志氏から指名された柴田氏は、数カ月で6リットルが可能な「原理モデル」を作りあげた。そして、1994年8月、本社事業部に出向し、初めて商品化の現場に入ることとなった。 当時TOTOは、アメリカにまだ進出したばかりで、まったく知名度がなかった。しかし1992年に施行された新節水基準によりアメリカの会社がどこも新しい規制に対応した商品を作れていないなかで、洗浄機能での売り込みを狙っていた。そのプロジェクトリーダーが小林氏。「声のデカイ推進力抜群のリーダー」(柴田氏)として、大胆な仕事の進め方やスピードの大切さを教えられたという。また、同期の林氏もアメリカに駐在しており、アメリカでの便器の取り付け方などの設計上大切な細かな情報を逐次送ってくれていた。透明便器を使って製造のベテラン社員にも納得してもらい、どこよりも早く、アメリカの規制をクリアする節水便器を世に送り出したのは1997年。そこから便器は性能が大事だという考えが市民に浸透し、現在アメリカでは高級品市場においてシェア2~3位に食い込んでいる。 このアメリカプロジェクトの成功のおりには、小林氏から、「ありがとう。何百万円分のボーナスあげてもいい仕事だ。まあ払わんけどな(笑)」とねぎらわれる。初代「ネオレスト」の時とは違い、便器の機能の中核メンバーとして関わったこの仕事で、柴田氏は開発者として大きな花を咲かせたのだ。

1次情報を発信したいという
こだわりを持ち続ける

アメリカプロジェクトを終えて研究所に戻り、再び事業部から持ち込まれる様々な改良テーマに取り組んでいた2000年のこと、“掃除しにくさの解消”というテーマに対して、柴田氏はフチなしの便器というアイデアで社内プレゼンに臨んだ。しかし、以前アメリカプロジェクトのリーダーでもあった小林氏に、わずか30秒で「なにがいいの?」と却下されてしまう。「少しへこんだ」その出来事を忘れかけていた2年後の2002年、2代目「ネオレスト」に柴田氏の知らぬまにフチなしが導入されていた。最初社内では受けなかったはずのフチなしは、その後ユーザーの高い評価を受け、タンク式の便器「ピュアレスト」などにも導入され、今や他社にも広がり始めている。「そういう形で影響が生まれることは、ちょっとドキドキします」と柴田氏は語る。 彼はすでに発見、開発されている情報の2次的活用も大切だが、自ら1次情報を発信する人でありたいとずっとこだわってきた。今後、そんな彼のもとで、新たな花を開かせる後進が育っていくのであろう。

(TEXT/柴田 朋子)