研究者が問いなおす「集まる意味」共同体から個人が析出される社会を見据えた変容を――岡本仁宏氏


岡本仁宏氏【プロフィール】
岡本仁宏(おかもと・まさひろ) 関西学院大学法学部教授。Yale大学、Washington大学客員研究員などを経て、現職。西洋政治思想史・政治哲学と、NPO/NGO論研究の二足の草鞋をはく。二足をつなぐキーワードは「市民社会」。「市民社会」「国民」「愛国心」「世論」概念の歴史的展開、さらに実践領域の理論化にも取り組み、ボランティアやNPO/NGO等の非営利社会活動についての研究も行っている。

「社会変容」から見た「集まる意味」

今、社会は根本的に変容しつつある

「このままじゃない。社会は大きく変わっていきそうだ」。そんな予感を多くの人が抱いているでしょう。私自身は、15世紀のグーテンベルク革命以来の巨大な変容が起きていると感じています。私たちは何を迎えているのか、どこに来ているのか。「集まる意味」と向き合う前に、まずは前提として、歴史や人類史に目を向ける必要があると思います。

グーテンベルクが発明した印刷技術は情報革命をもたらしました。その技術はドイツを中心として全ヨーロッパに普及し、特に聖書の印刷が行われたことで有名です。それまで聖書は、希少財として教会の権力者たちに独占されていたので一般教徒の目に触れることはなく、聖職者を媒介として口伝え絵解き物語として存在していました。しかも、現地語に翻訳すること自体が犯罪とされていました。それが印刷技術によって、聖書は“共通の情報”として広く一般に提供され、中世宗教革命を成功に導く原動力となりましたし、さらに文書に基づく官僚制の普遍化や新聞などの公論の成立と展開も生み出しました。そして、近代国家や市民革命をもたらします。メディアの革新が根本的に社会を、そして人間を変えたのです。

現在も、新しいメディア革命が起こることで、社会や人間が根本的に変容していくのは明らかで、今、そういうレベルでの事変が起きているんです。我々は、変容の波に乗るサーファーであるべきだと言う人もいます。どんどん移り変わる社会において、私たちはどこに行くのかが見えない。あらゆる予測を超える変革が進行中です。大切なのは変容をよく見ながら、それがよりよい方向に向かうよう主体的な意識を持って動かすこと。トレンドだから「乗っかって」という話ではなく、トレンド自体に多様な可能性が含まれているのですから、そのなかで何があるのかを探り、考える必要があると思います。

人間は元来、ポリス的な生き物

また、人類史的な話をすると、人間というのは元来、群れ、集団として出てきたのです。人間は、一人で「人間」になったのではありません。「たった一人の女性からというミトコンドリア・イブの説は、あくまで遺伝子上のこと。イブが残した子孫の集団がより強くなり、淘汰のなかで生き残ってきました。宗教にしても今日まで残っているのは、集団をより強くするためだと言われています。宗教意識が集団行動を強化し、存続可能性を高めてきたという見解です。

かのアリストテレスは「人間はポリス的動物である」という言葉を残しました。人間は本性によって共同体を形成して生きるポリス的(政治社会的)な動物であると。アリや蜂と同様、人間も群れることで初めて人間であり得たわけです。特に人間は言語を通じた自覚的集団を形成することがその本性的特質です。集団を成しての行動があって、人間という種の存在がある。日常の「会議で集まる」という話とはかけ離れていると思われるでしょうが、言いたいのは、集まることが必要か否かという議論は意味がないということです。大前提として、人間は集まらないと本来の意味で存在しないのですから。議論すべきは、どんな集まり方が重要かです。現代の新しい技術の下で、どういった集まり方がふさわしいか、望ましいか、人と人のつながり方はどうなっていくのか、こういったことを考えていくべきでしょう。

個人の析出が可能になったのは「社会の進化」

集まることが本来的だからといって、凝集的な共同体が必要と言っているのではありません。共同体の在りようも大きく変わってきました。古来より日本では、「家」にせよ「ムラ」にせよ(「会社」にせよ)、強い共同性を持つ組織が重要なものとして位置づけられてきました。しかし、明治以降、いかに個人を共同体から析出させるかが文学や社会科学の課題となってもきました。夏目漱石や丸山眞男などはその典型でしょう。個人の析出を社会の進化として捉えています。

孤立、孤独はときにネガティブに語られるけれど、一方で、なぜ孤立や孤独が可能になったのか?という話があります。昔は共同体のなかでなければ生きていけなかったわけで、“個”は不可能だったんですよ。一人ひとりが個人として生きることが可能になった背後には、それを支えるシステムや社会的な協働があるのです。村八分にされても生きていける、いや、今では残った二分である火事と葬式ですら、共同体はほとんど必要がありません。行政が消防サービスを提供しますし、市場の葬祭業者が葬儀を取り仕切り行政が火葬にします。つまり、孤立を支える集合的インフラができてきたのです。

個人の析出が可能になり、一人ひとりの「尊厳」を尊重するという意味において、社会は進化してきたといえますし、今もなお進んでいます。たとえば、医療におけるインフォームドコンセントの実質化はもっと進められるべきでしょう。高齢者介護や終末医療の現場で、今、高齢者の一人ひとりの尊厳が保たれ、その意思が尊重されているでしょうか。

大切なのは、こういう個人を支えるためにも新しい共同性や協働が必要だということです。たとえば、ネット社会において新しい共同性を有するMe Too運動などは、抑圧的な組織や共同体からの助けを求める声と自立がセットになって生まれたわけでしょう。一人ひとりが自立し、自らの人生を決定できることは重要ですから、こういった流れはどんどん進むと思います。それを支えるにはベースとしての協働がないといけないし、きちんとした「非人格的」なシステムが必要です。

今の時代、スーパーマーケットに行ったら一言もしゃべらずに用を済ませることができますよね。ネット上の取引もそう。人間的な交流がなくても目的を果たせる「非人格的」、つまりパーソナルな要素を排除したシステムができ上がっているのです。人が交流できるバザールや市場(いちば)のような、本来的な人が集う「市場」を取り戻す必要性を指摘する声はあって、それ自体は正しいと思います。でも、不条理なことや“ベタベタした関係”がなくても自由や自立が得られる、基盤としての非人格的なシステムが重要なのは確かです。話が大きくなりましたが、こういったことを押さえたうえで、集まる中身を考える必要があると思うのです。

これからの「集まる」

リアルを代替する技術が持つ可能性を無視しない

遠隔であろうと対面であろうと「集まる」場合、いろいろなケースがあります。目的は意思決定か、作業か、あるいは懇親でしょうか。また、規模や定型性、さらに凝集性など想定されている「集まり」の違いもあります。「集まる」を類型化したうえで、丁寧に、第一に、集まること自体の意味、第二に対面の意味を、区分けしてその可能性を見ることが大切です。全部一緒くたにして、集まる意味が「ある、ない」を語るのは無意味で、目的や規模を想定して議論を立てることが必要です。

個別でなく集まる目的として、すぐに思い浮かぶのは、1.情報の集中的な共有や、2.感情の結びつき、でしょう。さらに、その場自体から立ち上がる、3.即興的創発性も無視できません。少なくとも、この3つを視野に入れて、集まらなくてもできるかどうか、議論になると思います。それぞれオンラインでできる可能性をチェックする必要があります。

たとえば、情動や創発性に関連してですが、私は「身体性」の問題がとても重要ではないかと思います。教育現場では、実技や実習、芸術系などはオンラインでは限界があると言われています。たとえば、子どもを抱っこする、高齢者の身体介護をする、このようなケアには身体性と不可分の情動性が不可欠でしょう。また芸術ならば、その場での瞬間的かつ創発的な表現が重要になってきます。これらをバーチャルでどこまでできるのか、できないのか――。

あまり既成概念にとらわれず、丁寧に考えなきゃいけないと思います。SNSのように、ある種の感情がつながる場ってあるじゃないですか。先のMe Too運動の発信者も、また難病を患う人も、ネットを介して世界中の同じ境遇の人たちとつながることができる。こういうマイノリティで孤立していた人たちが新しい共同性を見いだしていくツールとしてSNSを含むネットコネクションがあります。そのなかでは情動的な一体性が生まれているのです。子どもを抱きしめる行為はすごく大事ですが、同時に「それがないと絶対に子育てができない」と言ってしまうと、先が見えなくなってしまう。アバターや仮想空間のようにリアルを代替する技術は進化していて、バーチャル世界での新しい人格がメンタルな一体性を持つ可能性だって十分あるわけです。その可能性を無視してはいけないと思いますね。

時間的な集合と空間的な集合を整理する

さらに、整理の軸として考えられるのは、<時間的な集合>と<空間的な集合>です。バーチャルなオンラインでの集まりというのは同時性がある点で、要は時間的な集合なんですよ。空間的に集まる必要はないけれど、時間的集合は必要であるという場がZoom的な集合。で、次はその時間も外せるかどうか。情報共有インフラをしっかり作っておけば、たとえば、時間を限定せずにビデオを見たり、レスポンスをチャットに入れたりすることも可能ですよね。時間と空間。今は、身体性の問題がなければ、いずれにもとらわれる必要はないという流れにあると感じています。時空を超えた「集まり」の可能性というのは、とてもエキサイティングだと思いますね。

主体的な意識を持って動くことが求められている

ところで、昨年、私はFacebookで「新型コロナ休講で、大学教員は何をすべきかについて知恵と情報を共有するグループ」という情報ページを立ち上げました。現在でも2万人を超える大学人を中心とする参加者がいます。もとは自分のニーズから発生し、仲間に参加を募ったものです。最初から単なる情報交換に終わらせるつもりはなく、一緒に悩めるような場ができることを期待していたんです。全国から大勢の教職員の参加があったのですが、大学人がこんなにも真摯に教育に対して奮闘し、必死になって情報を求めているということに驚きました。なかでも、支援が整っていない大学では、孤独に、懸命に闘っている人たちがたくさんいます。有益な情報の提供や交換は重要ですが、同時に、困難な現場の状況や思いを共有する場であることが大事です。

気をつけているのは、管理しすぎないこと。強く管理すると面白くなくなってしまうし、管理運営の方法自体も共同で作りたいと考えています。相互扶助なのですから、誰もが参加者で運営者なんです。集団が、アメーバのようにしなやかに形を変えていく可能性もあります。皆が自発的に集まるような場をどう作り、維持するかは、私の専門でもあるNPO 組織論にも通じるものなので、一つのチャレンジでもあります。未来に向けて、私たちはどんなことに取り組んでいくのか。先述したように、時代の変容をよく見て、それがよりよい方向に向かうよう、一人ひとりが主体的な意識を持ってしたたかに動くことが求められているのだと、強く思います。

執筆/内田丘子(TANK)
※所属・肩書きは取材当時のものです。