研究者が問いなおす「集まる意味」「つながっていない」部分にこそ、意味が存在する――安田 雪氏

安田雪【プロフィール】
安田 雪(やすだ・ゆき) 関西大学社会学部教授。立教大学、東京大学を経て、2009年より現職。専門は社会ネットワーク分析で、社会学、組織論、経営学をベースに活動する。『パーソナルネットワーク』(2011)、『ルフィの仲間力』(2011、2018)、『社会ネットワークと健康』(2018)など、著書多数。

ネットワークから見た「集まる意味」

「つながれない」今は、経験したことのない試練の時期

たとえば、カシオペア座やさそり座などの星座をイメージするとわかりやすいのですが、星座が有するシステムや物語というのは、一つひとつの星がつながることによって作り出されています。それは、組織やチームも同じ。現在のような、あまり人が集まれない、協力し合えない状況にあるときには、人は単体の星として存在しているようなもので、つながらないとその真価が発揮されません。

ヒト・モノ・カネといった経営資源を効果的に活用するのが難しいなか、さらに「人と接触するな」という制約が加わったのです。ある意味“見えざる災害”です。地震や洪水などといった見える災害への対応については、日本人は長年にわたる蓄積を経て強くなってきた部分があります。ところが、このコロナ禍では「集まる」「つながる」がむしろ元凶となり得る、災いを大きくしかねないという、経験したことのない事態になっているわけで、まず、今がそういう試練の時期であることを認識しておかなければいけないと思います。

集まる意味をすり合わせ、協調していく知恵を持つ

なぜ、そこに集まるのか。それが協調を生み出すのか。これは、「部分の最適」と「全体の最適」とを区別して考えたほうがいいです。部分的に集まるときは、たとえば「帰省して家族に会いたい」とか、自分たちでわりと意味づけをしやすい。でも、それがより大きな規模の単位に、あるいは、異なる社会圏に属する人たちとの全体の集まりになったとき、どう意味づけできるかです。大学でもオンライン化が進む一方で、講義を巡る混乱があったり、人々の集まりに対する意識差があったりと、ある種の分断が起きています。きっと、どこの場でも同じでしょう。そういった分断を引き起こさずに、集まる意味を自分たちの言葉で語り、納得し合える状況を作り出せれば、そこにその組織における最適があるのだろうと思います。すり合わせをして、協調していく知恵を持つことが大事です。

ネットワーク分析において、私が重要視しているのは、つながっているところではなく、「どこがつながっていないか」です。欠けている部分を見つけたうえで、そこをつなげるか否か、あるいは、つながり過ぎている部分をカットするか否か、といった点に着目しているわけです。仕事でもチームスポーツでも、あらゆるネットワークにおいて欠けている部分、足りない部分を知るというのは、まさに先述したすり合わせ作業であり、それらを皆で認識し合うことが非常に大事なのです。

つながり方を自分で見計らうのも重要な視点

ネットワーク理論には発展段階がありますが、つながりが重要であり、人は皆、孤立するより協調したほうがいいというのは、古くから大前提としてある話です。組織論で言えば、日本は「一致団結して皆で頑張ろう」的な全員結束型がよしとされた時代がありましたよね。でも、同質集団になると、新しい価値観や知恵が入ってこないから広がりがないということで、望ましいネットワークの形も変わってきました。異質のグループに橋を渡すようなつながり方を大事にすべきだよねと。

そして次に出てきたのが、結束型、橋渡し型といった二項対立を超えた考え方で、足元では結束をして、外に対しては橋渡しができる人材が重用されるようになってきました。柔道で言えば、寝技も立ち技も両方できるという話なので、確かに上級技ではあるんです。

そのなかで今、私が着目しているのは、ビジネスパーソンはキャリアやポジションによって使うべき技を変えていく必要があるという点。新入社員ならば、まずは社内で結束を作るわけですが、そのまま続けていてはダメで、いずれ段階や立場に応じて橋渡し型へと変わらなければならない。また逆に、橋渡し型から結束型に変わるタイミングもあるでしょう。つまり、つながり方を自分で見計らう力も重要になってきたということです。実際、世界規模でのネットワーク調査においても、結束と橋渡しのタイミングを選びながらオシレーション(振動)を発生させている人は生産性が高く、昇進も早いという結果が出ています。

三者の組み合わせをうまく生かす

また、別の角度でお話しすると、社会学は基本的な分析単位が3人なんですね。1対1のときと、第三者が入るときとでは人の行動はまったく変わり、3人いて初めて社会性というものが発揮されるからです。その小さな三角関係において、皆が仲良しならば「プラス×プラス×プラス」でうまくいくし、また、1組の仲が悪いとすれば「プラス×プラス×マイナス」でマイナスの三角になる。どのパターンがいいという話ではないのですが、要はバランスがとれていて、3人の組み合わせがうまく働いていれば、二者の蓄積よりも力が強く出るということです。ビジネスパーソンにとって、ミクロな居心地のよさは大事です。

加えて、態度の一貫性という意味でも、3人という単位は意味を持ちます。人は協調行動をとるとき、その時々、立場によって態度を変えることがありますが、少なくとも相手が2人ならば、一貫した態度を見せられるものです。人を信用する、あるいは信用を獲得するうえで、これはミクロながら注目すべき点じゃないかと思います。やはり、三角というのは基本で、組織全体としては三者の組み合わせから始めて、いいチームづくりをしていくのが大事なのではないでしょうか。

これからの「集まる」

「変える部分」「変えない部分」の洗い出しが大切

コロナ禍前に比べて、集まることの価値は大きく上がりました。多くの人が特別な機会であるという認識を持ったでしょうし、この感覚はしばらく続きそうです。そのなかで大切なのは、集まらずにできることは何か、それを見つけて蓄積していくことです。物理的に集まる価値を再認識するとともに、「集まらなくてもできる」ノウハウ集めみたいなことを、きちんと行う必要があると思います。

オンラインでは、実際、私も自宅に居ながらにして国際会議などに出られるようになりましたし、また、地理的制約条件下にあるような国の研究者たちの活躍を促す土壌もできてきました。同様に、学生たちの就職活動を見ていても、地理的制約を超えてチャレンジできる機会が増え、オンラインでなければ知り得なかった企業と会えるようにもなった。こういったメリットに感じられる部分は、アフターコロナになっても変わらないでしょうね。

見方を変えれば、集まることで生じていた余計な部分はどんどんカットされていくということです。つまり、集まらなくてもできる仕事は何なのか、集まって時間やコストを無駄に使っていた仕事は何なのか、そういった洗い出しをしていくことが重要になります。ただ、あまりに無駄を切り捨てすぎると、偏りが懸念されます。たとえば、暗黙知が形成されにくいとか、オンラインでは能力を発揮しきれない人たちが現れるといった、弱点もふまえて工夫や配慮をしていきたいものです。

無駄や“余剰の知”がもたらす力を見落とさない

話が矛盾するようですが、人が集まる、集まらないに影響を与える一つの大きな要因は、「その場でどれだけ無駄なことが起こるか」なのです。そして、その無駄にどこまで意義を見いだせるか。皆で集まってもまったく無駄のないやりとりをするだけなら、個々のオンラインで済むわけですよね。ちょっと雑談をする、久しぶりに顔を合わせるといった“余剰の知”とでもいうか、そこから生まれるインタラクションがあるのだったら「やっぱり集まろう」という話になるわけです。

精神的な支えや、何らかのプラスアルファを求めるとき。あるいは、自分がもやもやしていることを話し合いたいとき。こういう場合は、集まることによる無駄、余剰の知が力になるものです。一見無駄に見えるような相互作用にも意味はあって、予期しなかった何かを生み出す可能性があるのです。その無駄の適正値みたいなものはわかりませんが、一つ確実なのは、無駄がまったくない設計をしたら、組織やチームはうまくいかないということ。アフターコロナに向けて、ギリギリどこまでオンラインで進めていって、物理的な集まりをどこまで許すか、あるいは強制するか。これからは、その幅についてもきちんと考えていかなければと思っています。オンラインであれオフラインであれ、ほかの人と接触する頻度が多いほど、つながりが強くなる傾向は確かにあるのですから。

執筆/内田丘子(TANK)
※所属・肩書きは取材当時のものです。