中小企業で進むリスキリングのリアル株式会社陣屋:倒産寸前の老舗旅館 データを使いこなす接客人材を育てた経営者と女将の取り組みとは

vol4.jpg株式会社陣屋
女将 宮﨑知子氏

神奈川県秦野市の「陣屋」は、将棋・囲碁のタイトル戦の舞台としても知られる老舗旅館です。大手自動車メーカーの技術者だった宮﨑富夫さんが2009年、倒産寸前だった旅館の経営を親から引き継ぐと、旅館管理システム「陣屋コネクト」を開発し導入。妻で女将の知子さんとIoTの活用や従業員の働き方改革も同時に進め、約3年で経営を立て直しました。昔ながらの働き方に馴染んでいた従業員を、どのようにデジタルツールを使いこなす人材へと変化させていったのでしょうか。女将の知子さんに聞きました。

エンジニアの経験活かしデジタル化 個人に囲い込まれた情報を外に出す

――宮﨑さん夫妻が後を継いだ時の陣屋は、どのような状況だったのでしょうか。

宿泊客の管理は紙の台帳が主体で、従業員もサービス係、清掃係、フロント係などに細分化されていました。このため、フロントには長蛇の列ができているのに、別の係は暇を持て余している、といったことがよくありました。顧客情報は、サービス係の頭の中やメモ帳に囲い込まれ、同僚に共有されることもありません。お客さまをよく知るサービス係が上、といったヒエラルキーが生まれ、職場の風通しも悪くなりがちでした。
私たちは経営を引き継ぐと、顧客の宿泊管理や従業員の勤怠管理などを紙からデジタルに移行し、情報共有を進めるとともに業務の無駄を省こうとしました。ちょうど面接を受けに来た元SEに開発担当者になってもらい、「陣屋コネクト」を開発、2010年3月に運用を始めました。

――夫の宮﨑富夫さんは技術者だったため、テクノロジーには馴染みがあったのですね。

はい。夫は本田技術研究所の元エンジニアで、自らプログラミングなどを学ぶのも好きでした。前職の経験が土台になって、デジタル技術やIoTの有効性を認識したと思います。
ただ、旅館経営については素人だったので、最初の1年間は週1~2回、「宿屋大学」という社会人向けの夜間講座に通いました。
宿屋大学では、宿泊業の会計や財務などに関する業界独自のセオリーを学んだほか、大手ホテルが導入しているシステムの知識も仕入れました。しかしホテルシステムは高額で、われわれのような小規模の旅館では使いづらい仕様になっていました。このため初期投資があまりかからないクラウドサービスを使い、システムを自社開発したのです。

従業員の不平不満、耐え忍んだ2年半 紙台帳禁止の強制力も行使

――新しいツールを、従業員が使いこなす上での苦労はありましたか。

当時は開発担当者と私たち夫婦以外に、パソコンを使える従業員は1人だけという状態だったので、本当に大変でした。従業員には、経営が危機的状況にあることを説明し「仕事を変えなければ、旅館は立ち行かない」と繰り返し伝えました。「私に辞めろということですか」と詰め寄る人もいましたが、粘り強く「ATMでお金を下ろしたことがあるなら、絶対に使える」と説得しました。
従業員とエンジニアの間にブリッジをかける役割も必要でした。社内のエンジニアには接客経験がないので、接客担当と直接話をしてもかみ合いません。夫は本当に使いやすいツールへとカスタマイズしていくために、現場のニーズをかみ砕き、優先順位をつけてエンジニアに伝えることが大切であるという考えを持っており、夫婦で現場の声を翻訳することにも取り組みました。

――どのようにデジタルスキルを学んでもらったのでしょうか。

陣屋従業員のITレベルがあまりにもばらばらなので講習会もできず、とにかく仕事で使って体で覚えてもらうしかありませんでした。本番なら必死に取り組みますから。
紙の台帳への記入を一切禁止し、台帳はカギを付けて私か夫が管理しました。それほど徹底しないと、従業員は「書く方が早い」と、コネクトを使おうとしないのです。
操作ミスで、食材が無駄になったこともあります。ただ、紙の時代にもキャンセルの伝え漏れなどで、かなり無駄は出ていたんです。だからミスを責めるより、再発防止策をマニュアルに盛り込んで、内容を充実させることに力を入れました。出退勤の打刻をコネクトに移し、全従業員が使わざるを得ない状況を作ったことも、使ってもらうための策の1つです。

――システム導入の効果を社員に実感してもらうまで、どのくらいかかりましたか。

2年半くらいです。それまでは、従業員の不平不満を耐え忍ぶ日々でした。使い勝手が悪いと普及も進まないので、この間にシステムの改善も繰り返しました。
例えば当初、サービス係のなかにはコネクト画面を自分のメモ帳に書き写す人がかなりいました。部屋割りや宿泊プランなどの必要な情報が同じ画面にまとまっていないので、お客さまの問い合わせにすぐ対応できないというのです。こうした声をもとに、ユーザーインターフェースを使いやすい形に変えていきました。

「死んだコイ、どうすれば」 指示待ちから自分で考え判断する組織へ

――従業員が、コネクトを積極的に活用し始めたきっかけは何ですか。

お客さまからのお褒めの言葉です。コネクトには、お客さまが前回宿泊した時の献立や苦手な食材、同宿者などの情報が蓄積されています。こうした情報をもとに会話を膨らませたり、食材を差し替えたりすることで、お客さまに喜ばれる場面が増えました。
一方、並行して他の改革も進めました。部屋食からレストラン食に変えて、配膳などの作業を効率化する一方、食事の質はランクアップさせました。1人の従業員が多くの業務をこなす「マルチタスク化」や、浴室にタオルの残数を知らせるセンサーを設けるなどのIoT化を通じてオペレーションも改善し、お客さまをお待たせする時間も減りました。
こうした結果、2、3カ月ごとに訪れるリピーター客が増え、従業員もさらにモチベーションを高めました。「今聞いたお話は、入力しておけば後で役に立つ」などと考え、コネクトを活用するようになったのです。

――一連の経営改革を通じて、従業員の意識に変化はありましたか。

昔は「池のコイが死んでいますが、どうしたらいいですか」など、些細なことも聞きに来る「指示待ち体質」の人がかなりいました。業務のデジタル化にマルチタスク化と、急激な変化に対応し続けることで、従業員自身が考え判断する組織に変わりました。今は3~4年目の若手でも、私が言うより前に行動し「これ、やっておきました」と事後報告することがたびたびあります。日常業務の進め方や、在庫管理の方法などに関する提案も多く、自律的な働き方の歯車が合ってきたと思います。従業員の頑張りに報いる意味もあり、2016年から、月~水曜日を定休とする週休3日制も導入しました。

判断力の土台は情報 テクノロジーが伝達と共有を加速

――経営者として、社員が自律的に働くことを促す「仕掛け」は作っていますか。

経営改革を始めたころは「収益が改善したら、一部を給与に還元する」と公約し、損益分岐点に対する達成度をグラフで毎日表示しました。グラフに可視化することで、高齢のスタッフも現状を理解し「週末の宴会で頑張ろう」などと発奮してくれるのです。人事評価の際に「改善提案をしたかどうか」を自己申告してもらい、プラスに評価する仕組みも設けました。
社内SNSも活用しています。お客さまに褒められたり、お叱りを受けたりした経緯をSNSで共有することで、他のスタッフも、仕事をする上での気づきを得られます。
積極的な投稿を促すため、旅館に届いたお中元をとっておいて、投稿数の多い人に進呈するキャンペーンもやりました。また私たち経営側も、積極的に投稿したりコメントを付けたりしています。上司に見てもらえること、褒められることが、投稿のモチベーションになると思います。

――テクノロジーは、自律的に働く社員を育てるのに役立つとお考えでしょうか。

陣屋自律的な判断を支えるのは情報であり、テクノロジーは情報の共有と伝達を加速させるツールだと考えています。「指示待ち」も、決断するだけの材料がないために起こります。
当社は、コネクト以外に音声認識のツールも導入しており、仕事中の会話はインカムとヘッドホンで、全スタッフが共有しています。これにともない、広大な敷地のどこに誰がいるのか把握しやすくなり、「荷物を運びきれないので、近くにいる人助けて」といった、相互の助け合いも円滑になりました。インカムのやり取りを聞いて「1週間前に同じような質問があった時は、OKが出ていたな」など、他人の経験を自分の知見に加えられるのも、大きなメリットです。

――他の旅館などへ、陣屋コネクトの外販も始めました。

外販のために別会社を設立しましたが、メンバーにはまず全員陣屋で研修させ、旅館の仕事の流れや従業員の考え方を学んでもらいます。従業員の改善要望を言葉のうわべだけで捉えるのではなく、言葉の裏に、どのような本質的なニーズがあるのかを把握できるようになってほしいからです。
一方、システムに関する技術的な知識は、ある意味でシステムを「使い倒す」ことでしか身につかないと思います。文系出身者が多いのですが、先輩に同行してなるべく多くの旅館に足を運ぶなど、OJTを通じて必要なスキルを獲得していますし、本人が希望すれば講座の受講もサポートしています。

――他の旅館で接客にあたる人がツールを使いこなすために、大切なことは何でしょうか。

仕事を変えたいと思っている人はなかなかいませんし、ITやデジタルにリテラシーがある人ばかりでもありません。なぜ仕事を変えるのかについて腹落ちできないと、現場にはなかなか浸透しないため、社長自身がシステムを使いこなし、旗振りをすることが大切です。特に経営者が社内SNSなどを活用して積極的に発信したり、声掛けをしたりして、新しいことに取り組む社員の承認欲求を上手に刺激することが重要だと思います。

――これからの展望を教えてください。

陣屋コネクトを活用し、秦野市など周辺自治体の観光業活性化にも取り組んでいます。この地域は名の通った観光地ではない上、コロナ禍で企業の研修旅行やゴルフ需要も激減し、廃業の話もちらほら聞こえます。このため昨年「里山文化圏構想」を立ち上げ、地元の旅館や飲食店が食材を共同購入したり、満室になったら地元同業者に送客したりできるプラットフォームを作ったのです。いずれ宿泊施設や飲食店、ゴルフなどの必要な予約を一度にとれる仕組みも整え、地域のお役に立てればと思います。

聞き手:坂本貴志
執筆:有馬知子