2014年度研究プロジェクト

家本賢太郎

家本賢太郎氏
株式会社クララオンライン 代表取締役社長CEO

家本賢太郎氏がクララオンラインを起業したのは1997年。家本氏が15歳の時だ。大病の手術後に体が麻痺し、車いす生活を余儀なくされた若者は、世界をつなぐインターネットに夢を描いた。以来、紆余曲折を経ながら、日本を飛び出してアジアのかけ橋を目指すネット企業へと成長を遂げてきた。「インフラの仕事が好き」という家本氏は、どんな体験を経てそう思うようになったのだろうか。

家本賢太郎ホスティングサービスの会社から
国内外のブリッジとなる役割へ

アジアの各地で、サーバのホスティングサービスを提供してきたクララオンライン。近年は海外進出する日本企業や、日本に進出する海外企業へのコンサルティング業務、エージェント業務に力を入れている。「ビジネスの基礎的な部分に橋をかけること」を、自分たちの役割だと自負する。

創業してから10数年は、サーバのホスティングサービスを提供する会社としてやってきました。ここ数年、それに加えて海外進出する日本企業や、日本に進出する海外企業へのコンサルティング業務、エージェント業務に力を入れています。特にゲームやデジタルコンテンツを扱う企業のお手伝いに焦点を絞っています。クララオンラインでこれらの業務に携わる社員が約70人、北京の現地法人が約20人。そのほかスポーツのチームや競技団体にITソリューションを提供するスポーツITソリューションという会社に約25人いて、全体で約120人の会社です。海外は中国、韓国、シンガポール、台湾などにオフィスやデータセンターを展開しています。

私たちが海外展開を始めたのは10年ほど前。2004年の台湾が最初でした。最初は私たちも大失敗を続けました。海外に進出しようとする日本のお客さまのお手伝いをしていく時に、私たちはサーバのホスティングというインフラのお手伝いをしてきたのですが、進出先でお客さまのビジネスがうまくいかなければ、私たちのビジネスは、途中で「もういらないよ」ということになってしまう。国境を越える事業の成功率を少しでも上げてもらうため、私たちが泥水をすすった経験を活用していただけるのではということで、コンサルティング領域のビジネスを始めました。コンサルティングとかエージェントとか言っていますが、結局自分たちの仕事はブリッジなのだと思っています。ビジネスの基礎的な部分に橋をかけるという仕事が、私たちの役割なのです。

サーバのホスティングなど、クララオンラインが展開する事業のキーワードは「インフラ」だが、学生時代にももう一つ、インフラ作りに挑戦している。キャンパスの交通の便を改善しようと、NPOによるコミュニティバスの運営を構想したのだ。この時は規制の壁にはばまれ、挫折した。

大学は慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスに通いました。最終的には体育の単位が足りずに中退しましたが(笑)。このキャンパスは交通の便が悪く、みんなのためにとバス会社を作ろうとしたのです。NPOを設立し、特定の路線の免許だけを取得するコミュニティバスの形態を考えていました。ところが話を進めているうちに、排気ガスの規制が厳しくなりました。コストを下げるため中古バスの活用を考えていましたが、規制によってそれが難しくなり「ごめんなさい」することになってしまいました。今から思うと、インフラの仕事が好きだったんですね。サーバのホスティングもそうですが。

小学生のころから、目立ったり、リーダーシップを取ったりが好きということではなく、誰かの役に立っている状態が、純粋に楽しかったり、やりがいがあったりしました。もちろん、その状態にフィードバックがあればなおうれしいですが、サポートした誰かの結果が出ているのを見るのがうれしいというのは、常にありました。この性格は子どものころから変わっていないと思いますし、それがインフラ好きにつながっているのでしょう。

誰かの役に立っている状態にやりがいを感じていたことが、「インフラ好き」につながっているという家本氏。そうした性格形成に影響を与えた要素として、カトリック信者の両親によって育てられたことと、脳腫瘍と闘った上に、車いすでの生活を強いられたことを挙げる。

誰かの役に立つのがうれしいという性格の形成には、一つは両親の影響が大きいと思います。私は両親がカトリックの家で育ちました。今では12月24日にしか教会に行かない「クリスマス信者」になってしまいましたが、「誰かのためになることをする」ということの意義を、両親からずっと言われ続けて育ちました。今から振り返れば、私に言うだけでなく、両親も誰かのためになる行動を続けていたのだなと感じます。

もう一つは、脳腫瘍を患い、車いすで生活した経験が大きかったと思います。小学校6年のころ脳腫瘍を発症し、治療に必要な手術の後、自力で座れないほどに体が麻痺してしまいました。リハビリで回復し、車いすでは動けるようになりましたが、高校進学は断念。15歳で起業する道に進みました(18歳のころに、足を動かす神経が奇跡的に回復。不自由なく歩いたり走ったりできる状態に回復している)。

車いすで仕事を始めてみると、「自分一人の力で生きられるものではない」という人間の本質を、身にしみて理解することができました。それから病院の中では、亡くなってしまう同世代の友達もたくさん見てきました。当たり前のように健康で五体満足だと思っていた人たちが、突然病に冒された時の変化も見てきたので、「何のために生きるのか」を考えるきっかけは多かった。こうした経験も、「誰かのためになることをする」ということにつながっていると思います。

2015年05月22日