Column

ヤフー株式会社 常勤監査役
鬼塚ひろみ氏(前編)

事業だけに真摯に向き合い、製品の育成に心血を注いできた。
その結果は、執行役員のポジションとさらなる貢献への期待であった

現在、ヤフー株式会社で常勤監査役を務める鬼塚ひろみ氏は、男女雇用機会均等法が施行される以前に東芝に入社し、最終的にはグループ企業である東芝メディカルシステムズで常務執行役員を務めた、女性役員の草分け的存在だ。

歴史ある企業で、女性が役員に就任する例は国内ではまだまだ少ない。そんななかで、鬼塚氏が昇進のチャンスを掴んでいった背景にはどんな要素があったのだろうか。

1)お茶くみと仕事の狭間で

1976年に東芝に入社すると、鬼塚氏は国際事業部に配属され、医用機器の輸出などの海外事業に携わった。ヨーロッパや中近東、アフリカなどの国々の販売代理店や現地法人の販売を支援したり、マネージする仕事だ。そうした部署に配属されたことがまず、「ラッキーだった」と鬼塚氏は振り返る。

「私が会社に入ったころは、女性が電話を取ると相手の人が、『男の人に代わってください』と言うような時代でした。『鬼塚さんじゃだめだから誰々に代わって』というのではなく、『女の人じゃなくて男の人に代わって』と言われるような世の中だったのです。ですが、海外のお客様にはそういうところがなくてやりやすかった。男女対等に仕事ができたし、女性だからといって特別視されることもありませんでした」

性別の違いを問題にしないそうした雰囲気は、海外とビジネスをしている国際事業部ではほぼ常識であった。鬼塚氏は、スタートからそうした職場で働けたことが、その後のキャリアを大きく左右したと考えている。

「長く立派に仕事を続けようというような高い志を持って東芝に入ったわけではありませんでした。それでも色んな障害を乗り越えて仕事を続けられたのは、周りの人々のおかげ、というよりむしろ周りが私の進む道を切り開いていってくれたのだと思っています」

均等法が施行される86年以前、女性の労働には残業等にさまざまな制限があった。本来、女性を保護する目的で作られたはずの法律だが、皮肉なことに働く女性の足かせになっていると感じることもあった。

鬼塚ひろみ氏

また当時、一般的にオフィスの中で女性は「お嬢さん」等と呼ばれることもしばしばあり、本当の意味で同じ目標に一緒に立ち向かう仲間とはみなされないことが多かった。たとえ能力が高い人物であっても、女性だというだけでまとまった仕事に挑戦するチャンスをなかなか与えられないのが当たり前の時代だったのである。

そんな時代に、幸いにも鬼塚氏は、「半径2メートル以内に来た人には男女の別なく絶対に仕事を頼む」と公言し、実際そうであった有能な上司の下で働くことができていたのだ。

「女性はお茶くみなどをしたうえで、仕事もちゃんとやらなければいけないという時代でしたが、幸いにも周りの人たちが『なかなか一生懸命やっているじゃないか』ということでチャンスを与えてくれたと思っています。今考えても、私はラッキーだったのです」

出世したい、キャリアを積みたいと思ったことはなかった。それでも、お茶くみやコピーとりをしながら、どんどん仕事を与えられた若い鬼塚氏は、やればやるほど仕事が楽しくなり、とにかくがむしゃらに働いたという。

2)失うものは何もない、だから精一杯チャレンジできた

1987年、全社の組織構造が変わり、国際事業部はそれぞれの事業部の中に分かれておかれることになり、鬼塚氏は医用機器事業部に籍を置き、引き続き輸出などの事業に携わった。そして1999年の社内カンパニー制導入後、医用システム社で血液自動分析装置に出会う。この製品との出会いが、その後の鬼塚氏のキャリアを決定づけた。

当時、東芝が作っていた血液自動分析装置は、国内が中心で、事業規模が小さく、ポテンシャルはありながら、利益貢献もない事業だった。社内では海外市場にもっと進出すべきとの声が上がっていたが、思うに任せない状態が続いている領域であった。

鬼塚氏はこの事業部門に事業担当の主任として配属された。
勝算などなかった。しかし、このままでは血液自動分析装置の事業に先がないこともわかっていた。そして同時に、自分には失うものは何もないという気持ちもあった。とにかくできることを精一杯やるしかない。

「背水の陣でした」と振り返る鬼塚氏にとって、それは、大きなチャレンジだった。一方で、失うものが何もないという状況は、鬼塚氏本人は決して意図してはいなかったのだが、大きなチャンスでもあったのだ。

血液自動分析装置を扱う事業部に移って感じたことは、率直に言えば“暗い”ということだった。みんなが自信なく廊下の隅を歩くような雰囲気。このままでは事業はよくならないと感じた。

明るくない原因は明白だった。そして、その“原因”を解決すれば明るくなるはずだ。数字を上げればいいのだ。会社に貢献しているという実感が湧けば、雰囲気は変わるはずだ。

「とにかく会社に貢献する事業にしていかなければと思いました」

当時の血液自動分析装置は、他社の製品に比べ特に秀でている訳でもなく、また不具合も多かった。そこで鬼塚氏は、海外事業部で培った経験を全力で投入した。海外の試薬メーカーは、装置をツールとして自社の試薬を販売するというビジネスモデルが一般的である。しかし、東芝の血液自動分析装置は、そうした海外試薬メーカーのニーズに応えるようなハード面での改良や、その為の協力体制が十分とはいえなかった。

鬼塚氏はその点に着目し、海外アライアンスを強力に推し進めたのだ。

鬼塚ひろみ氏

「海外アライアンスは、それまでの私の海外経験が役に立って、非常にうまくいったのです。お客様の声を聞きながら装置の性能や品質を地道に一つ一つ改善していくと、最終的にはお客様からもアライアンス先からも非常に信頼され、感謝されるまでになりました。アライアンス自体も、それまでは製品ごとに終了する形でしたが、次の装置、また次の装置と継続する形になっていきました」

部内の雰囲気は急速によくなった。装置の開発もどんどん進み、事業が安定し、国内のシェアも上がり、事業全体がいいスパイラルに入っていった。

「『会社にとって本当に必要な事業だと思われるようにしていこう』と、とにかく事業のブランド力を上げ、人気度を高めて、注目度を上げるようにしたのです。そうすると、関心を持つ人、応援してくれる人、味方が増えていきました。注目され、頑張ってその結果が出れば、みんなもやる気が出てきますし、達成感をもてるようになります」

結果的に社内でも優良な事業に成長した。これは鬼塚氏が前の部署で培ったネットワークを生かした結果のみでなし得たものではない。まさに偉業であったといえる。

その過程は言うまでもなく困難なものであった。事業の立て直しだけに、会社から十分な資源を与えられていた訳ではない、常に苦心していたのは人の問題だった。

「いつも人数が足りず、不満が出ることもありました。それでも、土光(敏夫)さんの『少数精鋭というのは精鋭を少数集めるのではなく、少数にすればみんな精鋭になる』という言葉を引用してはチームを励まし、少数で頑張り抜きました」

事業が大きくなると本格的に人手が足りなくなる場面も出てきたが、鬼塚氏自身は、メンバーは多すぎるよりもむしろ足りずに苦労するくらいがいいと考えていた。組織が大きくなればなるほど、一人ひとりは歯車の一つと化してしまいがちになる。そんな組織よりも、一人ひとりの顔が見え、考えや気持ちが伝わる小さな組織のほうが有機的に機能するはずではないか。そう考えると、小さな事業部だったことも含めて「ラッキーだった」というのだ。

そして、実は社内で、鬼塚氏のそうした頑張りに常に目を配っている存在があった。

「毎年、毎年、成果が出て業績が上がっていったので『本当によくやってくれているね』とほめていただきましたし、随分と後押しも協力もしていただきました。そういう意味では私は、上司や仲間、部下、すべてに恵まれていたと思います」

鬼塚氏は常に、「ラッキーだった」と自分の置かれた状況を常にポジティブにとらえ、その上で、与えられたタスクを受け止め、自分なりの工夫で着実にクリアしてきた。そして社内には、鬼塚氏に期待し、その働きを見守り、評価する存在があったのだ。

商品の成長とともに鬼塚氏は、2003年に部長に就任した。2004年には事業部が非常によい業績をあげて社内で業務表彰も受けた。2005年にはそれまで総合的事業部の一部門だったものが、独立した事業部となることができた。

(後編に続く)

 

鬼塚ひろみ プロフィール

鬼塚ひろみ氏ヤフー株式会社/常勤監査役
(※元・東芝メディカルシステムズ株式会社/常務執行役員)

略歴:
1976年 東京芝浦電気株式会社(現株式会社東芝)入社/国際事業部に配属・医療機器事業部主任
1999年 東芝のカンパニー制導入により株式会社東芝 医用システム社に名称変更。血液自動分析装置の事業部に配属
2003年 東芝メディカル株式会社と株式会社東芝 医用システム社が事業統合し東芝メディカルシステムズ株式会社に。同社CNET事業部部長就任
2005年 同社検体検査システム事業部長就任
2009年 同社常務執行役員就任
2011年 同社退任
2012年 ヤフー株式会社常勤監査役就任(現任)

 

TEXT=森裕子・白石久喜 PHOTO=刑部友康

2014年08月15日