研究所員の鳥瞰虫瞰 Vol.3職場の心理的安全性を高めるために人事は何ができるか? 奥本英宏

現代の職場の万能薬?

米グーグル(アルファベット社)によって、「心理的安全性」の組織成果への強い影響が報告されて以来、職場の対人リスクへの関心が高まっている。「心理的安全性」とは、組織メンバーが集まって会話をするときに、自分の考えや感情を気兼ねなく発言できる雰囲気のことを言う。心理的安全性の高い職場では、メンバーは誤りを恐れずに思ったことを発言し、都合の悪い事実についても率直な話し合いをすることができる。過去の研究からは、心理的安全性の高い職場では、組織の成果や創造性、学習活動、そしてメンバーの主体性やコミットメントが高まることが報告されている。

反対に心理的安全性が低い職場では、分かっていない、的外れ、話し合いを乱すなど、他のメンバーからネガティブな評価をされることへの不安を感じてメンバーは発言を控えてしまう。評価的、批判的なコミュニケーションが支配する職場では、ちょっとしたアイディアや漠然とした品質への不安、失敗のリスクを抱えた仕事等の活発な会話は期待できない。現場発のイノベーションやリスクへの早期対処が強く求められる一方、職場では若手世代の価値観の食い違いやテクノロジー導入に伴うコミュニケーションの希薄化が進んでいる。現代のマネジャーにとって、職場の心理的安全性はより重要なマネジメントテーマとなってきている。

組織規範の厚い壁

心理的安全性は同じ企業でも組織によってバラつきがあり、マネジャーの発言や行動の結果としての「暗黙的な組織規範」が強く影響している。「さあ、何でも率直に話をしよう」「自分も間違うことがあるから大丈夫」「失敗は学習の機会だから責めたりはしない」と、突然マネジャーが笑顔でメンバーに語り掛けても職場は簡単に変わらない。なぜなら、心理的安全性はマネジャーとメンバー間の信頼と尊敬がその土台にあるからだ。
マネジャーをはじめとする組織のメンバーそれぞれが、自分の個性を受け入れ、認めてくれているという確信があって、初めてネガティブな対話のリスクをとることができる。マネジャーがメンバーの強味・弱味の両方を貴重な「持ち味」としてあるがままに受け入れることから、組織の心理的安全性を高める一歩が始まる。

問われるマネジャーの人材観

多くのマネジャーは「メンバーの個性は日々のマネジメントを通じて把握している」と考えている。しかし、「自分を受け入れてくれている」とメンバーが感じているかどうかは別問題だ。そして、残念ながら多くのメンバーは職場で自分らしく振る舞えていないと感じている。メンバーの強味と弱みを明確に切り分けて、弱味を繰り返し指摘する。自分が気に入った取組みは褒めるがそれ以外は無関心。そんなマネジャーも多く見られる。メンバーはマネジャーの言葉だけでなく、ノンバーバルと言われる非言語メッセージにも敏感だ。マネジャーが何を話題にするか、報告を受ける時の座り方や相槌、口調、眉のひそめ方まで、メンバーはすべての情報を自分の評価へと翻訳していく。
こうした無意識に話題を選別する自分のフィルターに自覚的になったり、話の聞き方を改善したりすることは必要だが、それよりも大切なことは「人間は誰でも失敗をするし、欠点や弱点を抱えている」という当たり前の前提をマネジャーが深く感得し、メンバーと共有できていることである。

自己受容からはじまる信頼づくり

このことは、マネジャー自身が欠点や弱点を抱えていることへの洞察につながる。マネジャーの自己受容は他者受容へとつながり、受容をめぐる相互のフィードバックが自己信頼と他者信頼を高めていく。過去の研究から、多くの人に影響を与える優秀なリーダーは、自然体でありながら担うべき役割に強くコミットして成果を上げていることが分かっている。そうしたリーダーは「本来の自己」(Authentic Self)と「役割の自己」(Role Self)が高い次元で統合されている。自分を良く見せようとして弱さを隠す、または弱さに無自覚であるリーダーは、いくら仕事の役割を果たしてもメンバーに安心感を与えることはできない。
そして、役割を意識せずに自然に振る舞っているだけのリーダーも、仕事の成果やメンバーの信頼は得ることはできない。ハーバードビジネススクール教授のエイミー・C・エドモンドソンもまた「心理的安全性」と「責任の風土」の両立を目指すことの重要性を語っている。心理的安全性の高い組織づくりは、マネジャーの「個性のあるがままの受容」と「役割の統合」を果たすことから始まっていく。

持ち越してきた人事の宿題

そうした受容と統合に向かうマネジャーのために、経営や人事はどのようなサポ―トができるだろうか。「人間は失敗もするし、欠点もある」という当たり前のことが職場で共有しにくいとすれば、それはマネジャーを取り巻く構造的な環境が、メンバーへの発言や行動に影響を与えていると考えるのが普通だろう。成果主義の導入に伴う業績偏重のMBO評価、成果重視のハイパフォーマー行動評価、コンプライアンス違反を防ぐネガティブチェックなど、企業はマネジャーの「役割の自己」への要望を高めて続けてきた。これ以上は要望できないほどに高まった役割と、本来の自己とのギャップが職場に現れているとすれば、今後、心理的安全性をめぐる職場の問題はさらに大きくなっていくだろう。

そろそろ大きく振れた役割重視の人材観を見直し、組織の健全さと成果を両立する人事を再構築する時期に差し掛かっているのではないだろうか。それは、多様な持ち味を持つメンバーが相互支援的にかかわり合い、仕事に応じて役割を持ち替えて成果を上げていく、相補・互酬的、成長・発達的、そして個性・人格的なものになるかもしれない。こうした取組みは心理的価値をめぐる人事の大きなチャレンジとなる。定量的なマネージがしにくい心理的価値は、まだ人事が施策に十分に取り込み切れていない古くて新しい普遍的テーマだ。心理的安全性をめぐる議論から、次の時代の本質的な人事の取組みが生まれてくることを期待したい。

奥本 英宏

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