極限のリーダーシップガイドランナー 志田 淳氏

選手が安全、安心に走れること。その基本的な技術と信頼の土台があってこそ戦術が生きてくる

w171_kyokugen_main.jpg2021年夏の東京パラリンピックで走る道下美里氏とガイドランナーの志田淳氏。陸上マラソンの女子視覚障害T12クラスで優勝、金メダルを手にした。選手の左右どちら側に立ってもタイムを確認できるよう、時計は手に持って走る。
Photo=高見明士

東京2020パラリンピックで、陸上マラソンの女子視覚障害T12クラス(*)初の金メダリストが誕生した。ランナーは道下美里氏。この快挙を支えたスタッフの1人が、ガイドランナーを務めた志田淳氏だ。

ガイドランナーとは視覚障害のあるランナーの伴走者のこと。「きずな」と呼ばれるロープで選手とつながり、選手の目となってコースや周りの選手の状況を伝える役割を担う。

道下氏は2016年のリオパラリンピックで銀メダルを獲得。そして東京2020パラリンピックでは金メダル獲得を目標に掲げていた。道下氏のレースでは2人のガイドランナーが前半と後半を務める。前半はリオパラリンピックでも伴走を務めた青山由佳氏。志田氏は後半のガイドランナーとして、リオパラリンピック直後から道下氏のチームに入った。

東京2020のレースでは20kmすぎに青山氏からガイドランナーを引き継いだ志田氏。「目の前をトップで走るライバル、RPC(ロシアパラリンピック委員会)のエレーナ・パウトワ選手を捉えるチャンスを狙っていました」

チーム競技という魅力

志田氏はガイドランナーになる前、自身が選手として多くの経験をしてきた。東海大学在学中には箱根駅伝に3度出場し、2年生のときに10区、3年生のときに2区、4年生のときに7区で出走し活躍した。大学卒業後はNECの実業団に加わり、2000年の世界ハーフマラソン選手権では日本代表にも選出されたほどの実力の持ち主だった。2001年に現役を引退してからはNECのコンピュータ品質担当として働き、ガイドランナーといわば二足の草鞋を履いてきた。

志田氏がガイドランナーを始めたきっかけは、実業団時代の後輩からの誘いだった。そしてその競技の奥深さにすっかり魅了された。

「これまでのマラソンに対する自分の固定観念が覆されましたね。マラソンは孤独な競技。一方、ガイドランナーは選手と走ります。2人が共にがんばってはじめて最高のパフォーマンスが発揮できる。2人で勝ちにいく、という完全なチーム競技であることに驚きました」

それから志田氏はガイドランナーとしての活動を増やしていった。高橋勇市氏、和田伸也氏、谷口真大氏といった数々のブラインドマラソン選手たちのガイドランナーを経験。北京、ロンドンのパラリンピックにも帯同し、経験を重ねていった。
道下氏のチームに入ったとき、「金メダルをとれる選手と組むチャンスが巡ってきた」と感じたという。

道下氏は福岡、志田氏は東京在住のため、普段はそれぞれトレーニングに励み、月に1〜2度の合宿で練習を重ねていった。東京2020で必ず金メダルをとるという目標のもと、道下氏の周りには多くの仲間も集まった。視覚障害がある人は走る練習も1人ではできない。日々のランニング練習では福岡在住のランナーたちが日替わりで道下氏の伴走を務めた。

w171_kyokugen_02.jpg2007年11月、福知山マラソンで高橋勇市氏(写真中央)の前半のガイドランナーを務め、北京パラリンピックへの切符を手にした。後半のガイドランナーの川嶋伸次氏(写真左・現旭化成陸上競技部コーチ)とともに表彰台にて。
Photo=志田氏提供

ガイドランナーとしての手痛い経験

ガイドランナーの経験は豊富だと自負していた志田氏も、チーム道下では試行錯誤があった。

ある大会で、志田氏は道下氏に不満をぶつけられた。その大会は出場選手が多いわりに道幅が狭く、路面もでこぼこが多い。転倒や接触の危険があると考えた志田氏は、危険を避けながら走ることができるコースを見極め、「右に寄って」「左に寄って」と道下氏に声をかけ続けた。結果、最後まで無事にレースを終え、自分ではうまくやりきったと思っていた。しかし、レース後の道下氏からのフィードバックは予想外のものだった。

「周りに足音が終始聞こえていて、怖くてうまく走れなかった。どうして周りの状況を教えてくれなかったんですか」

志田氏は、自分本位の伴走になっていたことに気づいたという。

「選手が安心して走れるための基本的な声がけの土台ができていないと、いくら戦術がうまくいってもダメ。足音が近いけど、周りは安全だよといった声がけが必要だったのです」

再び、東京2020パラリンピックのレースに戻ろう。前方を走るパウトワ氏を視界に捉えていた。「見える範囲だし、大丈夫だよ。後半抜いていくよ」。30km地点でパウトワ氏に追いついた。スパートをかけるなら今だ。志田氏が「いける?」と聞くと、道下氏は「いける!」と即答。一気にトップに立ち、そのまま走りきる。道下氏は金メダルを勝ち取った。

伴走者はあくまでも伴走者であり、選手ではない。表彰されることもない。しかし責任は大きい。ガイドが転んで走れなくなれば選手も失格になる。選手よりも先にゴールすると失格になるというルールもある。

「それでもガイドランナーをやるのは、人を勝たせる喜びがあるからなんですよ」

志田氏の手にメダルはないが、メダルと同じくらい価値のある誇りが輝いている。

w171_kyokugen_01.jpg道下氏のレースでは、前半を青山由佳氏(写真右)、後半を志田氏がガイドランナーを務めた。二人体制であれば、ガイドランナーの1人に万が一のことがあってももう1人がカバーできる。道下氏を必ず優勝させるための戦略でもある。
Photo=志田氏提供

Text=木原昌子(ハイキックス)

(*)T12 クラス:視覚の障害クラスの1 つ。伴走者と走るか単独で走るか選択できる。視力0.0025 から0.032 まで、または視野直径10 度未満

志田 淳氏

東海大学工学部卒業。大学時代、箱根駅伝に3度出場。卒業後はNECの実業団ランナーとして活躍。2000年には世界ハーフマラソン選手権のメキシコ・ベラクルス大会に日本代表として出場。2001年に現役を引退。現在はNECにて生産技術品質推進本部に勤務しながらブラインドマラソンのコーチ、ガイドランナーとして活動。東京2020パラリンピックで道下美里氏のレース後半のガイドランナーを務め、道下氏の金メダル獲得に貢献した。