人事のアカデミア埴輪

埴輪が映す古墳時代の社会から国家成立前夜の日本を知る

埴輪といえば、素焼きの人形のようなものを思い浮かべる人が多いだろう。現代に生きる私たちから見ると、素朴な表情やユーモラスなポーズに愛嬌も感じるが、埴輪はただのかわいらしいマスコットではない。人物以外にもさまざまな種類があり、意図を持って古墳に並べられていたという。当時の人々がどう暮らし、日本という国家の仕組みがどう固まっていったのか。考古学者の若狭徹氏を道案内に、埴輪から見えてくる古墳時代の社会に迫る。

埴輪は古墳の飾り群像で王の威厳を示す

梅崎:まずは埴輪の基礎知識を確認させてください。土偶とは何が違うのでしょうか。

若狭:時代がまったく違います。土偶が作られたのは、1万6000年から3000年前の縄文時代。埴輪は主に古墳時代で、もっとずっと後です。

梅崎:歴史区分でいうと、縄文時代の後、紀元前10 〜8世紀頃から弥生時代、3世紀中頃から古墳時代となります。時代的には、少なくとも数百年以上の隔たりがありますね。

若狭:作られた目的も異なります。土偶は女性を表現したものが多く、安産や豊穣を祈願するためのアイテムでした。一方、埴輪は古墳の飾りです。初期には筒形の円筒埴輪が、古墳という聖域を守るものとして置かれました。やがて器財や家、動物、人などをかたどった形象埴輪が登場し、王の政治世界をイメージさせる舞台装置として古墳に並べられるようになりました。

梅崎:つまり、無造作に置かれているわけではないということですね。

若狭:明確な関係性のもとに配置されています。これがわかったのは昭和初期に、群馬県の保渡田(ほどた)古墳群の発掘に携わった考古学者、福島武雄の功績です。大学で鉱山学を学んだ福島は、得意の測量術で非常に精緻に埴輪の配置を記録してくれました。福島自身は病で夭折してしまいましたが、これにより埴輪研究が大きく進みました。

梅崎:保渡田古墳群には、榛名山の噴火によって、1500年前の姿がそのまま丸ごと残されていた。だから普通なら割れ散ってしまう埴輪の位置も把握できたんですね。1990年代の再発掘調査には若狭先生も携わられたそうですね。

若狭:はい。こうした調査から、埴輪は一体一体でなく、群で置かれていることが明らかになりました。水を祀ったり、儀礼を行ったり、武威を示したりと王を主役にした複数の場面が表現されており、埴輪群像は、生前の王の業績を示すものだと考えられます。

w174_acade_01.jpg出典:取材をもとに編集部作成

前方後円墳でつながるヤマト王権連合

梅崎:埴輪が置かれていた古墳について、もう少しおうかがいします。古墳といえば前方後円墳が真っ先に思い浮かびますが、造られたのはいつ頃でしょうか。

若狭:まさに前方後円墳が造られたのが古墳時代です。3世紀中頃から6世紀の終わり頃にあたります。
その前の弥生時代、日本に稲作が広まり、各地に「クニ」が生まれました。その1つが邪馬台国です。弥生時代は戦争の時代でした。小国が激しく対立するなか、神秘的な卑弥呼のカリスマ性で戦を収め、邪馬台国連合ができたのです。

梅崎:その卑弥呼の墓といわれるのが箸墓古墳です。

若狭:箸墓古墳は、3世紀中頃に築造された最初の前方後円墳で、300メートル近くもある大きな墓です。それ以前の古墳はせいぜい100 メートル程度ですから、一気に巨大な墓が造られたわけですね。これはおそらく、クニごとに別々の宗教、別々の墓を持っていたところを、卑弥呼の死によって連合が崩壊するのを食い止めるために、前方後円墳をシンボルに地方豪族をまとめようとしたのではないか。そこから大和地方の大王を中心とした勢力が頭角を現し、ヤマト王権が生まれたと考えられています。

梅崎:古墳による全国の豪族のネットワークを構築したのが古墳時代だということですね。

若狭:同じ会員証でつながる和平連合であり、そのなかを物資が行き交い、経済的なつながりもできてくる。その象徴である前方後円墳を造るのには承認が必要でした。ヤマト王権とのつながりの度合いによって墳形が決められ、同じ前方後円墳でも、地域の経済力や政治力に応じて大きさが違います。

梅崎:勝手に造れるわけではなく、王権との関係性のなかで決められていた。

若狭:江戸時代の「親藩・譜代・外様」にたとえる研究者もいます。これにはかなり想像が含まれますが、首長になると、まず大和に行って大王と同盟関係を結んだのではないか。そこで、大王から「私と同じ前方後円墳を造るのを許可する。ただし半
分のサイズにしなさい」などと古墳造りが認められた。そして自分の治める地域に戻ると、すぐに古墳を造り始めました。

梅崎:生きているうちから造り始めるのですか。

若狭:そうです。古墳造りといっても、奴隷をムチで打って強制労働させていたわけではありません。古墳は共同体のシンボルであり、共同作業で造っていたと考えられます。いわば、村の神社のご奉仕に行くようなものでしょうか。農作業のない冬に、我々の王のための墓を皆で造り、王から米が再分配されるようなシステムができあがっていた。村人は奴隷ではなく、村人あっての王なのです。だからどれだけ大きな古墳でも造ることができたのでしょう。

梅崎:そして王が亡くなると、古墳に埴輪を並べて、生前の業績を示すわけですね。

若狭:これも想像ですが、埴輪を並べたら次の王が進み出て、人々に語りかけたのではないか。前の王の偉大な業績をたたえ、共同体の成り立ちからこの土地の素晴らしさについて語る、国褒めのような儀礼があったと考えています。

梅崎:埴輪群像が表す場面の前で、あんなことやこんなことがあったと皆に向かって語りかける。まるで舞台のようなドラマティックな空間ですね。しかし、それがイベントのピークとして、その後、埴輪はどうするのでしょうか。業績を後世まで残したいなら、素焼きではなく、石で作ったほうがよいと思うのですが。

若狭:基本的に儀礼が終われば、埴輪が割れても気にしません。保存しようとした形跡は一切ありませんから。既に次の王の墓を造り始めているので、関心はそちらに向いていたのでしょう。あくまでも王は共同体の代表にすぎず、特定個人の名を残す観念はなかったのだと思います。

梅崎:先生が指摘される通り、古墳は「共同体と首長の関係をもとに構築される社会的な装置」だったわけですね。単なる墓ではなく、社会システムのなかに組み込まれている。

若狭:古墳が造られる場所にも意味があります。静かに祈りを捧げる場所というよりも、港湾や街道など交通の要衝や新規開拓地に、ランドマークとして造られているものが多くあります。たとえば大仙陵古墳、仁徳天皇陵古墳とも呼ばれていますが、大阪湾に面した台地の上にあります。これは全長500メートル近くもある日本最大の古墳で、船で港に近づいていくと、その壮大な姿がよくわかります。

w174_acade_03.jpg出典:『楽しく学べる歴史図鑑はにわ』(若狭徹監修/スタジオタッククリエイティブ)より抜粋、一部編集部改変

発掘されたものから多角的な検証を重ねる

梅崎:古墳時代のイメージががらりと変わってきます。王権のある大和地方だけが開かれていたと考えがちですが、地方でもしっかりとした地域経営が行われていたんですね。

若狭:火山灰に埋もれた群馬県の榛名山麓の遺跡群の調査から、当時の様子が明らかになってきました。古墳時代といえば竪穴住居に高床倉庫と考えられていましたが、竪穴住居は冬用の住まいで、3シーズンは地面を掘り下げない平地式の小屋に住んでいたようです。平地式の小屋も蔵、作業小屋、家畜小屋など機能別に分化しており、複数の建物群を保有していることがわかりました。

梅崎:いくつもの世帯が集まってムラが構成されている様子も、丸ごと残っていたんですよね。

若狭:水源を管理しながら水田の開発をしていました。畑も残っていて、現在と同じような畝が見られます。近くには群集墳といわれる小さな古墳群があり、古墳時代の後期には王だけでなく、村人も古墳に埋葬されていたことがうかがえます。

梅崎:このように各地の首長が、水利権の管理や農業政策を行い、渡来人を呼んで手工業を起こしたりと、マルチタスクを担って地域開発に取り組んでいた。その業績が埴輪群像になるのも納得できます。

若狭:ヤマト王権も、連合のメンバーである地方豪族の支えがなければ成り立たなかったのです。それでも、6世紀後半くらいにはパワーバランスが変わっていきます。ヤマト王権は、氏姓制度の導入や、屯みやけ倉という直轄地の設置など、徐々に支配を強めていき、連合システムの象徴だった前方後円墳も終焉を迎えます。朝鮮半島との緊張関係もあり、危機感を強めた蘇我馬子らによって国家形成が目指され、やがて推古天皇が即位。飛鳥時代へと移っていくのです。

梅崎:考古学は、時代を経て残されたものから当時の生活や社会の姿を再構成していくわけですよね。著書にも書かれていましたが、火山灰に埋もれた村から発掘された、甲冑姿の首長と思しき男性の話が印象的です。彼は首長の責務として、怒れる山の神と対決しようとして火砕流に倒れたのではないかと、若狭先生は指摘されています。

若狭:当時の首長の役割やその場の状況、風土記などの資料にもあたって、そう解釈しました。

梅崎:あらゆる実証を駆使して、そのうえで想像力を発揮していくところは、考古学ならではの研究スタイルだと感じます。

若狭:そうですね。何段階もの検証を行います。埴輪を研究するにも、埴輪以外の考古遺物や古墳や住居などの遺構も当然調べますし、古事記や日本書紀などの史料にもあたります。窒素や酸素の同位体の量から当時の食べ物を推定するなど、自然科学的な方法を取り入れたりもします。それでも基本は、フィールドに行って遺跡を掘り出して、実際にものを見て触って考えること。もの自体は何も語ってくれないので、どういうアプローチでものに対峙していくかの感覚は重要だと思います。

梅崎:我々のような専門外の者でも、古代の謎にはやはりロマンを感じるし、研究してわかることが増えるほど、また新たな謎が想像されます。解が見えない謎を追いかけていく楽しさを、考古学は私たちに教えてくれるような気がします。

w174_acade_02.jpg撮影協力:明治大学博物館

Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康(梅崎氏写真) 平山 諭(若狭氏、集合写真)

明治大学 文学部 専任教授w174_acade_wakase.jpg
若狭 徹氏 
Wakasa Toru 群馬県出身。明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。国指定史跡保渡田古墳群の調査・整備、かみつけの里博物館の建設・運営に携わる。高崎市教育委員会教育部文化財保護課長を経て現職。

◆人事にすすめたい本
『埴輪は語る』(若狭徹/ちくま新書)埴輪が語る古墳時代の社会を読む。『東国から読み解く古墳時代』(若狭徹/吉川弘文館)地方から古墳時代を展望。

梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。

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