データが語る「集まる意味」「集まる意味を問いなおす」を問いなおす

我々がコロナ禍に巻き込まれて久しい。未だに制限のある仕事生活を続けている一方で、ポストコロナに向けてのマネジメントの動きも活発になってきた。ここでは「集まる意味を問いなおすプロジェクト」の総括を含めて、ポストコロナ時代への出口戦略について考えていきたい。

コロナ禍において我々が経験したことは、複数の人間が、同じ場所で一定時間一緒に対面で過ごすことをできる限り避けながら仕事を進めるということである。コロナ禍での言葉を用いれば、できる限り3密を避けて仕事を進めていくということになる。このディスアドバンテージを克服するためにテレワークでの仕事活動が飛躍的に増え、我々の働き方の様相も(人によっては)一変したともいえるし、一方でこれまでと変わらないコミュニケーション量で仕事をすることも可能になっている。

非公式性の喪失とリアルとバーチャルの異同

このようなコロナ禍でおこったことを本プロジェクトにそって「集まる」(※1)という観点から捉えなおせば、そこには2つのポイントが含まれている。一つは、非公式性の喪失、もう一つはリアルとバーチャルの異同である。まず、テレワークの活用によって、集まる必要のあることの多くがテレワークで代替されることになった。一方で、今まではオフィスにいることで発生した多くの「会う」が喪失した。たとえば、テレワークでの会議や打ち合わせは基本的に目的がなければ起こりえないが、設定さえすればこれまでの会議と同様に進めることができる。ただしテレワーク会議では集まったなかの特定の人と個別に話すことが難しいことから、会議の前後でのちょっとしたやり取りなどの偶発的な「会う」は発生しにくい。また、このように偶発的に会い、「ちょうどよかった」というように複数人で話すということに限らず、オフィスで同じ場所にいることで知るさまざまな情報を得ることが難しくなっている。つまり、公式的に集まること、主たる目的のある“集まる”は維持されるものの、そうではない非公式的な“集まる”や会議前後でのちょっとした話し合いのような集まったことで生まれる集まる意味が喪失している。コラム「コロナ禍におけるコミュニケーションの問題」においても、テレワーク制度が適用されている人とされていない人の「場の変化」の違いとして、テレワークで働いている人のほうが、目的が設定された情報伝達のための会議が増加していることに対し、目的以外の会話が期待できる場がテレワークができない状況にいる人より減少していることが示されている。

図表1 テレワーク制度が適用されている人とされてない人の「場の変化」の違い
テレワーク制度が適用されている人とされていない人の「場の変化」の違い出所:リクルートワークス研究所(2021)「職場における集まる意味の調査」

2つ目は、多くの論者が述べているリアルとバーチャルの異同である。先に述べたように、テレワークにおいても集まることは可能である。しかし、そこで交換される情報は発言も含めた上半身だけのものである。「五感がニ感になる(コラム:曜日により出社と非出社をわける「リモデイ」二感と五感の差をどう埋めていくのか)」というように、オンライン上でのコミュニケーションはその情報量が少なくなる。また、そのことは短期的な仕事の効率性や成果だけに影響するのではなく、中長期的な影響も与える懸念が示されている。図表2は筆者が本プロジェクトのデータを用いて行った分析である。コミュニケーション量と職場の業績などの成果変数はいずれも正の関係にあり、特に一体感や仲間意識、部署や企業の壁を越えた協業、企業文化や組織風土の継承に強い影響を与えていることが示されている。なおこのデータはコロナ禍のなかで収集されたデータであることから、コミュニケーション量が増加した回答者は減少した回答者に比べて極端に低い。つまり多くの回答者がこれまでと比べてコミュニケーション量が変化しないか、減少しており、それを踏まえればこの結果はコミュニケーション量の減少が与える影響と見ることができる。

図表2 コミュニケーション量が仕事や組織に与える影響
コミュニケーション量が仕事や組織に与える影響※集まる意味を問いなおすプロジェクトデータより筆者分析

この結果を含め、本プロジェクトでは興味深いさまざまな“集まる意味”に関する発見が示されているが、これらの背後には、非公式性の喪失と対面と非対面の異同の2つの点における我々のコロナ禍での経験があるということができよう。

集まらないことの意味

集まる意味を問いなおすとなると、我々はつい集まることには積極的な意味があると捉える。また、コロナ禍での経験は「これまでどおりに集まれなくなった」ということから始まっている。それゆえ、やはり集まることは大事だという懐古的なバイアスがかかり、集まらないことや非対面での集まることの意味についての検討が薄くなる。このことは自然なことではあるが、ポストコロナへの出口戦略を考えるうえでは、集まる意味だけを考えるのではなく、集まらない意味や非対面の意味をも考える必要があろう。

先に挙げたようにリモートでの会議では情報量が減少するといわれる。一方で、リモートでの集まりだからこそやり取りされる情報もある。リモートでの会議特有のものとしては、チャット機能などによってB面でのやり取りが可能になる点が挙げられる。会議を聞きながら、遠くの参加者と並行してやり取りができたり、補足的な情報を提供したり、発言を遮らずに自分の意見を述べることができることはリモートの会議の特徴である。このことは新しい非公式な発言が生まれているともいえる。もう一つリモートでの“集まる”の積極的な意味は、コストである。すでにリモート環境がそろった現在、リモートによる「集まる行為」は一般的に金銭的・時間的コストが低い。通勤する必要もなくなるし、遠方での会議のための出張や会議室なども不要になり、時間と費用の面で大きくコストを下げることになる。テレワーク移行期において、慣れないことにより効率の悪かったであろう会議も、適応が進むことで当初の非効率性によるコストは解消されていると思われる。また、自律的に仕事を進められるときには、テレワークのような形式のほうが仕事に集中でき、成果が上がりやすいこともある(コラム「個人の自律性と、意図的な場の設定がカギ」より)。

そして出口戦略を考えるうえで、もう一点考慮すべき点は、ここまで述べてきた認識が個人や役職によって異なるということである。役職別にコミュニケーションの工夫を見ると、対話の機会を持とうという意識や工夫はメンバーよりも管理職のほうが大きい(コラム「『コミュニケーションの責任』は誰にあるのか」より)。また両者の間では出社の意向が異なり、メンバーのほうが非対面を望んでいる。それゆえ、集まる意味を再検討し、集まる意味を説明する必要があるとすることもできるが、反対に集まらない意味を再検討し、集まらない意味を説明することもできる。我々はコロナ禍で、不幸中の幸いとして、集まらずとも仕事を進めることができる術を身につけた。集まることの意味を考えることは、集まらないことをうまく活用するためにも重要な点であることを気に留めておく必要がある。

手段として“集まる”のか、目的として“集まる”のか

集まる意味を考えることによるさらなる盲点は、集まることに意味を見いだそうとすることで、皆で集まって何事かを成し遂げることや、集まってお互いの顔を見ることそのものが楽しいということを枠外に置いてしまうことにある。それゆえ、集まる積極的な意味やそのコストパフォーマンスを示すことで、集まることを促そうとしてしまいがちになる。意味や価値を考えれば、どうしても(単位はわからないが)それを比較したり、その大きさを判断したりする思考になる。そしてその意味や価値を提示することで集まること(や集まらないこと)をマネジメントしようとするようになる。集まることの意味や価値を踏まえて、自分の職場やチームにおいて、どのようなことは(オンラインあるいは対面で)集まり、どのようなことは集まらずに進めるかを考えることは重要な思考である。しかし、その意味や価値は、先に示したように、人や役職によってその認識は異なり、そこに齟齬がどうしても生まれてしまう。

もしマネジメント上、集まる意味があると考えるならば、その意味や価値を伝え、納得してもらうのではなく、メンバーが集まりたくなる職場を構想・マネジメントすることのほうがより重要であろうと考える。職場の仲間の顔が見たい、一緒に働きたい、そう思える職場やチームを作れば、自然と集まることは意味や価値を帯び、実現される。つまり、集まる意味や価値は何かということを問うだけではなく、いかにしてメンバーが集まりたくなる職場を作るか、ということを問うことのほうがより意味のある問いではないかと思う。集まる価値があるから集まるという必然の価値だけに注目するのではなく、集まりたくて集まっているうちに生まれてくる偶然の価値にも着目すべきであろう。

人間は社会的な動物である。幸い、今、我々の多くは食べるためだけに仕事をしているわけではない。確かに集まって一緒に働くということは、他者への責任や仕事のうえでの煩わしさをも生む。一緒に仕事をしているという感覚があればこそ、自分の割り当てさえ終われば帰るということに少しの罪悪感を覚えるし、自分の役割を踏まえて面倒な仕事であっても働く。集まることは、このような罪悪感や我慢をより感じやすくさせているともいえる。ただ仲間と一緒に働くとはそういうものである。我々の多くは、仲間とともに自分らしく働きたいという思いを持つ。それゆえに喜びもあれば煩わしさもあるのである。また、コロナ禍のなかで就職してきた若手はこの2年、最低限の集まりしか経験していない。集まることの意味や価値を考えること、あるいはそれを伝えることはマネジメントにおいて今後、重要な問いになることは間違いない。一方で、どうやって仕事において集まる楽しさを大きくし、必要だが楽しくない集まりを少なくできるだろうか、集まることの価値や意味をどうやって伝えることができるだろうか、そういった新たな問いも、集まる意味を問いなおすことで生まれてくるはずだ。

(※1)ここでの“集まる”は、本プロジェクトのコラム「プロローグ~私たちはなぜ集まらなければならないのか」に準じて、「3人以上のメンバーが、同じ時間、同じ場において、コミュニケーションの発生が期待されること」を指し、対面でも非対面も区別はしていない。

文責:神戸大学大学院経営学研究科教授 鈴木竜太