女性役員に聞く昇格の実態株式会社東京個別指導学院 取締役 井上久子氏(前編)

真正面から仕事に向き合い、社長と激論の日々
しかし、理念に合致している限り、どんな困難なミッションも達成してきた

教えることに興味があったという井上氏が、個別指導塾である株式会社東京個別指導学院で取締役になるまでには、同社の理念を胸に、様々な困難に立ち向かい続けた日々があった。

1)遅咲きの社会人デビュー

井上氏のキャリアのスタートは、普通の人よりも遅かった。大学卒業後、教職に就いたものの諸事情で退職。塾講師に転身して、町の塾でアルバイトとして教えていた。本格的な再就職を考え始めたのは1995年、30歳手前のことだった。ずっと“教えること”に興味があり子どもたちに接したかったのだが、学校教育のありかたには疑問を抱きフラストレーションを感じていた。そんな時期に、井上氏が選んだのが東京個別指導学院だった。

「『やればできるという自信』『チャレンジする喜び』『夢を持つことの大切さ』という会社の理念に惚れ込みました。英語や数学の偏差値が上がることを求めるのではなく、やればできるという自信を持つことで子どもの可能性を広げていく教育を、個別指導という形態で行う。求人広告に書かれている内容に惹かれて、すぐに面接を受けました」

「教え始めると結構熱血です」と言う井上氏。心の中にあった理想の教育の姿を東京個別指導学院に見て、それまで感じていたフラストレーションを吹っ切るような熱い思いを抱いて入社した。
しかし、入社が決まり、2週間の研修を受けている間に、職種が変わることになる。“教える仕事”に応募し採用されたにもかかわらず、「教室長にならないか?」と言われたのだ。生徒と向き合う講師ではなく、営業も含む教室運営という配属に、教えることができないなら、辞めようとも思った。しかし井上氏は、とどまった。

「私より上手に教えられる講師は多分たくさんいます。私が講師になったとしてもせいぜい20人位しか教えられない。でも、教室にはその講師という仕事を選んでくれている若いパートナーが20人、30人といる。私が教室長になって教室を作り、その講師たちに、この素晴らしい『理念』を伝えれば、私一人ではなしえない20倍、30倍の生徒たちの大切な人生を輝かせることができるのです」

井上氏は、「チャレンジしよう」と決意し、教室長としてそのキャリアをスタートさせたのであった。

2)心と心のぶつかり合いで気付いた経営者の思い

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最初は神奈川県のあざみ野教室を担当し、その後は1年ごとに平塚教室、大船教室を立ち上げた。会社は教室を増やすことに精力を注いでおり、その方針に井上氏も応えた。しかし従業員の採用が追い付かず、井上氏も1人で3教室の教室長を兼任していた。この状態ではきめ細やかな対応ができないと危惧した井上氏は、創業社長である馬場信治氏に本心をぶつけたという。

「『今のままでは生徒を大事にしているとは言えないのではないですか』『でも僕はまず規模を大きくしたいんだ』と、社長と激論を交わしました」

ストレートに自分の意見をぶつけ、社長もそれに応える。その繰り返しの中で、社長の中に、理念を大事にする熱い教育者としての顔と、事業を拡大したいと願う起業家としての顔があることがわかってきた。教育者としてその理念をもっと広げたいという思いと、起業家として会社を大きくしたいという思いは、決して矛盾するものではないということを、井上氏は理解した。
「もっと人財が育ってからでもいいのでは」という考えもぶつけたが、最終的には社長とともに走る決心をした。

社長に気圧されたからではない。井上氏の中には「子どもたちにとってうち(東京個別指導学院)がベストの選択だ」と胸を張って言える教室づくりができているという自負があった。社長もそれを確信していたからこそ、井上氏の目に無茶とも映った経営者としての想いを、素直に露わにすることができていたのだ。

「正直『無茶苦茶だな』とも思いました。ただ冷静に当時を振り返ると、あざみ野教室では、ものすごい実績が出ていたのです。私自身は余計なことは考えないで、理念を伝える場を増やすことを、ただただ一生懸命やっていただけでした」

この激論を経て1年半の間、井上氏の教室拡大の快進撃はとどまることを知らなかった。いつしか、井上氏が自らに課した神奈川県の道路標識に出ている主要な町すべてに教室を出すという目標に、手が届きそうな24教室にまで拠点が増えていた。

3)教室長からの視点の拡大

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井上氏の業績は社内でも群を抜いており、その改革をより広い範囲で及ぼしてほしいと、組織からの期待は高まっていった。具体的には、平塚、藤沢、茅ヶ崎といった地区の教室長を束ねるブロック長を任されるというかたちで、その期待は表現された。

「当時、社内には中途の社員がその大半で、教室長のほとんど全員が私より年上の男性でした。それなのに入社1年半の私をブロック長にするなんて、無茶な話だと思い、辞退するつもりでした。しかし社長は私の気持ちなどおかまいなしに、『やればできる。を教えているお前自身が、それを実践しなければ、だめじゃないか』と畳み掛けてきたのです。理念の実践を言われると、素直に『はい、わかりました』と引き受けてしまうわけです」

社長が、井上氏の教室運営の手腕を評価していたことは間違いないだろう。同時に、自身の理念に最も強く共感しているのが井上氏であるという確信も、ほぼ新人に近い井上氏にブロック長を任せるという大胆な人事を決断するに至る要因であったに違いない。

教室長の下で実際に子どもたちと接するのは講師たちだ。井上氏の教室はその講師たちとの人間関係を築き、教室運営に関する意識を共有し、きめ細かなコミュニケーションを行えていたからこそ、成果を出すことができた。「社員だろうとアルバイトだろうと、講師たちとも互いにわかり合えるまでとことん話し合って、関係を築いていた結果だった」と井上氏は振り返る。
そうした井上氏の行動にカリスマ性を見いだし、それを活かして数字に結びつける、つまり自社のサービスを提供する機会を多く生み出す能力に、社長は気付いていたのであろう。
井上氏が管轄する各教室では、同社の1教室あたりの平均生徒数が100~120人だったころ、生徒数が200人近くまで膨れ上がっていた。大船教室の教室長を担当しながら、井上氏はどんどん新しい教室の立ち上げを手掛けた。自教室の成功事例を示すことで、年上の教室長たちも自分についてきてくれた。

(中編に続く)

TEXT=森裕子・白石久喜 PHOTO=刑部友康

井上久子 プロフィール

株式会社東京個別指導学院 取締役副社長 人財開発本部長
略歴:大学卒業後、一時的に教職として勤務
1995年 東京個別指導学院入社
1999年 神奈川県事業部長就任
2001年 首都圏事業部長就任
2002年 事業本部長就任
同年11月 取締役就任
2005年 取締役事業本部長
2006年 代表取締役副社長就任
2007年 人財本部長(兼任)
2010年 取締役 事業基盤本部長
2012年 取締役 コンプライアンス担当
2012年 取締役 経営企画部長
2012年 神奈川事業部長(兼任)
2013年 取締役 経営企画本部長
2014年1月 取締役 人財開発本部長(現任)
同年5月 取締役副社長(現任)