第2章 研究探索 「生き生き働ける」人とは? 組織とは?第18回 「ブータン学」 熊谷誠慈 氏

ゴールを定め、コンディションや考え方を“変える”勇気を持つ

【プロフィール】
熊谷誠慈(くまがい・せいじ)京都大学こころの未来研究センター上廣倫理財団寄付研究部門長/特定准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。2017年より現職。専門は仏教学(インド・チベット・ブータン)およびボン教研究。同センター内に開設されたブータン学研究室で、ブータン仏教研究プロジェクト、ブータン文化講座の開催なども行う。共著に『こころ学への挑戦』(2016)、『ブータン 国民の幸せをめざす王国』(2017)などがある。

探求領域

経済至上主義からの脱却をいち早く宣言したブータン

ヒマラヤ山脈の南麓に位置するブータン王国。人口75万人程度の小国ですが、「幸せの国」としてご存じの方も多いと思います。ブータンがGNH(国民総幸福)という理念を提唱したのは1970年代初頭で、弱冠16歳で即位した第4代国王が、外国人記者たちに対して「GNHはGNP(国民総生産)よりも重要だ」と述べたのが“事始め”だとされています。幸せはモノやお金以上に大事だと、経済至上主義からの脱却をいち早く宣言したわけです。2000年頃からはGNHの理論化や政策化が進み、広く海外から注目されるようになりました。日本で関心が高まったきっかけは2011年、東日本大震災後に第5代国王が慰問を兼ねて初来日したこと。メディアが連日のように取り上げ、一時的とはいえブータンブームが起こりました。仏教学を専門とする私がブータン研究を始めたばかりの頃で、「詳しいことを知りたい」という多くの問い合わせを受けたものです。

幸福を経済の上位に位置付けるGNH政策

よく誤解されるのですが、ブータンは経済的側面を頭から否定しているわけじゃないんですよ。GNH政策は「持続可能な開発の促進」「文化的価値の保存と促進」「自然環境の保全」「善い統治の確立」という4本の柱で構成されていて、経済的側面は最初の項目に含まれています。ただし、それは最優先事項ではない。あくまで4本柱の一つにすぎず、経済以外にも人々に幸せをもたらす要素があると考えているのです。また、柱の他に「生活水準」「健康」「心理的幸福」などといった9つの領域があり、例えば、経済が停滞して生活水準が望ましくない状況になっても、他の領域でカバーするという方策を取っています。これら領域はGNH指標というもので数値化され、国の状態を細部にわたって確認することができる。GNHは、理念だけにとどまらない具体性を備えた政策なのです。

探求領域×「生き生き働く」

根底に横たわっているのは、仏教の哲学・論理的思想

物質と精神とのバランスを取りつつ、幸福を実現していくことが重要視される背景には、仏教の教えがあります。仏教が国教的位置付けにあるブータンでは、「物質のみ」「精神のみ」といった両極端を避け、「真ん中の道(中道)」を進むのが理想だという思想が脈々と息づいている。仏教の宗教的側面、すなわち信仰的側面については、あくまでも個人の問題として強制することはありませんが、GNH政策の根底には、仏教の哲学・倫理的思想が横たわっているものと思われます。

GNH政策は、幸せを実現するための一つの有効なモデル

ブータンは「世界で一番幸せな国」として度々美化されるけれど、実際のところ、いろんな問題が存在しているのは事実です。2003年には、仏教では一番の重罪である殺生、つまり戦争をしましたし、若者の失業問題や薬物問題など、負の側面も抱えている。にもかかわらず、そして最貧国に属しながらも、ブータンは幸福度が高いという結果が出ており、これもまた事実。GNH政策という試みはやはり素晴らしいと思うし、ブータンという国は、幸せを実現するための一つの有効なモデルを私たちに提示してくれているのです。

若者の価値観変化が次代の扉を開くカギに

対して今の日本は、GDP世界トップクラスにありながら、毎年何万もの人が自殺し、こころの病を抱えている現状があります。すなわち、物質的な豊かさだけで必ずしも人は幸福にはなれないということです。なのに、日本はいまだ物質的・経済的豊かさに固執しているし、むしろ、大量消費型の資本主義がさらに加速しつつあるとさえ感じます。
そんな中、私が期待しているのは若者たちの価値観変化です。それが、何かしら未来へのカギを握っているんじゃないかと。高度経済成長やバブル経済で「お金や物質を至上」としてきた“大人”を信用しない彼らは、「何が幸せか」ということに敏感です。バブル崩壊や就職氷河期などといった苦しい時代を経て、価値観が変わってきたのです。ちなみに仏教では、苦しみを引き起こす主原因は「執着・怒り・無知」にあるとしています。ハングリーさに欠ける昨今の若者を悲観視するシニア世代は少なくないけれど、でも、この仏教的観点に基づけば、彼らは苦から脱却する「平穏な道筋」を進んでいるとも言える。停滞が続く日本の経済状況に、案外うまく適応しているのかもしれません。なので、幸せになるための一つのオプションとして、仏教思想を知っておくのもいいのかなと。そして、仏教的なウィズダムでもって、自分の幸せをチョイスできる社会が形成されれば、次代の扉が開くような気がするのです。少なくとも今よりは、皆が生き生きと幸せに働き、暮らすことのできる社会という意味で。

「生き生き働く」ヒント

幸福感は自分で作ることができる

生き生きと働けているかどうか……仏教的に言えば、すべては主観的な判断なんですよ。生き生きしていない、幸せでないと感じているとすれば、自分のこころがそう思わせているにすぎないのです。ブータンの仏教徒たちの中には「不幸だと口にするのは恥ずかしい」という捉え方をする人もいますが、それはすなわち、不幸だと感じてしまうのは仏教実践ができていないことを意味するから。幸福は、自分のこころの持ちよう、行動の結果によって得られるものだと考えているのです。
例えば、平均年収400万円の会社で600万円もらっている人と、同じく1000万円の会社で800万円もらっている人、どちらがハッピーか? 客観的には金額の多い後者ですよね。でも主観的には、前者の方が幸福度が高くなるようです。理由は……自尊心。自分を高く評価してくれている環境で働くことで、自信と誇りを持つことができるのです。しかし、それが他者を見下す優越感になってしまうと、仏教的には不幸になると言われます。つまりは、どういう状態にあっても、発想を変えれば、生き生きしていない自分を変えることができる。幸福感は自分で作ることができるのです。もちろん、たやすい話ではないけれど、まずはそういった意識を日頃から持つことが重要ではないでしょうか。

リスクを取ってでも「チェンジ」する勇気を

あとは、目標を定めることです。生き生きしている自分とはどういう状態なのか、そのゴールを具体的にイメージする。そして今の立ち位置を確認すれば、進むべき方向性、取るべき行動が見えてくると思います。仮にゴールを10点として、現状が6点だったとすると、あと4点をどうするか。環境を変える、考え方を変える、あるいは両方を変えることで10点に近づけていくやり方もあるでしょう。選択肢はさまざまにあるわけですから、自分の責任で選び取ることが大切です。
環境にしても、考え方にしても、現状からのチェンジは簡単なことではありません。でも、現状のままでは何も変わらないのは確かなので、やはり、リスクを取ってでもチェンジするという勇気は必要だと思うのです。途上国と違って、日本にはセーフティネットがありますから、何かに失敗して恥ずかしい思いをしたとしても、社会が助けてくれます。頑ななプライドはしばしば自己変革を阻害してしまいますが、生き生きとした状態、幸せになるためにも、自分の恥ずかしい部分や弱さも素直に認めることが大事です。私としては、「最低限の衣食住を保障してくれる」この国に感謝しつつ、自分自身を変えていきましょうとメッセージしたいですね。

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ブータン学の研究を始めて約10年。
ここまでご縁ができようとは思ってもいませんでしたが、
今や仕事というよりも“大切な趣味”の世界になっています。
仏教的な思想もそうですが、人々が幸せになるための
オプションをできるだけ多く提示していくことが、
研究者である私の務めだと思っています。

――熊谷誠慈

執筆/内田丘子(TANK)
※所属・肩書きは取材当時のものです。