第2章 研究探索 「生き生き働ける」人とは? 組織とは?第3回 「ギリシア哲学」 荻野弘之 氏

幸福は、獲得するだけではなく、発見する対象

【プロフィール】
荻野弘之(おぎの・ひろゆき)上智大学文学部哲学科教授。同大学院哲学研究科委員長。専攻は古代ギリシア哲学。1981年東京大学文学部哲学科卒業、84年同大学院修士修了、東京女子大学講師、カリフォルニア大学バークレー校、ドイツ・ボン大学、英国・オクスフォード大学などを経て現職。著書に『マルクス・アウレリウス「自省録」―精神の城塞 書物誕生』 岩波書店 2009、『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス 』NHK出版2003など。

探求領域

ギリシア哲学は、紀元前5世紀から幸福について概念化

「幸福」の問いは、ギリシア哲学が生まれたときから中心的問題だったと私は見ています。この時期に、世界各地で大宗教や古典思想が生まれていますが、おそらく社会が一定の成熟を迎え、人間や人間の限界を超える何かを求める時期だったのでしょう。その中でもギリシア哲学が優れているのは、そうした問いを深めて、明確に概念化したことです。
今、英語圏で「人生の意味とはなにか」という哲学が流行っているのは、昨今の幸福論の不毛さの裏返しではないかと思います。現代人の幸福観は、本人が「幸福である」と感じているかどうか(幸福感=幸福度)が全てという非常に主観的な概念になっています。その反動で、まったく別の客観的な座標軸が欲しくなった。しかし古代ギリシア哲学の幸福の概念は、そうした主観性と客観性の両面を併せ持つ概念なのです。

探求領域×「生き生き働く」

「幸福とは、持てる力をフルに発揮して活躍すること」

西洋最大の哲学者の一人とされるアリストテレス(BC384-322)は、人間の行動の究極の目的は「幸福」であると捉えました。当時の大まかな類型では、幸福とは、最もポピュラーな「快楽」という考え方と、政治家や軍人などに見られる「名誉」という考え方と、学者とか芸術家に多い「真理」を求める生き方の3つでした。これに対しアリストテレスは、幸福とは「徳に基づく魂の現実活動」と規定しています。つまり本人が所有する精神的能力(徳)を引き出し、存分に発揮(現実活動)することこそ人間の幸福だと考えた。現代に置き換えるなら、エリートビジネスマンが上司に引き立ててもらい、適材適所に配置されてばりばり働く、いわゆる「ご活躍」というイメージです。
アリストテレスの幸福論には、「快楽」も取り込まれています。人間は知性を持つ動物なので、知性を働かせること自体に快楽が生まれ、活動にずっと没入できて習熟度も高まると考えたのです。そこにスコレー(余暇・自己実現のための時間)も必要としたのは、ワーク・ライフ・バランスに通じる考え方ですね。また、「外的善」と言って財産とか友人とか自分が直接所有しない要素も幸福に欠かせない条件と考えたのも特徴的です。

「幸福とは、外的善はできるだけ持たないこと」

ギリシア哲学には、異なる考え方もありました。代表的なのは、外的善は一切なくても幸福は達成できると考えた学派(キュニコス派)。いろいろなものを持っていれば、災害などで失われたとき不幸になるから、外的善はできるだけ最小限にしたほうがいいという考え方で、彼らは実際、ホームレスのように生きた「清貧」の元祖ミニマリストです。


「幸福とは、感情に左右されず、理性で生きること」

また、ヘレニズム時代の主流だったストア派は、理性に従い、感情や欲望に振り回されない生き方こそが幸せの道だと考えました。日常生活で、われわれの幸福を阻害するものの多くはストレス。中でも大きいのは対人関係から生まれてくるさまざまな負の感情です。しかしストア派は、感情とは認識のあり方であり、ものごとを理性でありのままに見られれば、誤った認識に左右されず幸福でいられると考えた。アリストテレス型が積極的なのに対し、こちらはやや防御的。「ご活躍」ではなく「ご安心」に近い。


「幸福とは、快を求めず、苦痛の排除だけに徹すること」

エピクロス派は、「快」と「苦」の間に中間地帯は存在しないと考えました。「快」を知る人は、「快」がなくなれば「苦」を感じる。逆に言えば「苦」がなければ「快」である。それならば最初から小さな自分、弱い自分を自覚して、その中でいかに苦痛を引き込まずやっていくかという、守りに徹した「無苦痛主義」の幸福論を展開しました。
キリスト教を除けば、ギリシア哲学の段階で、幸福のパターンはほぼもう出尽くしています。今後世に出てくる幸福論は流行の再来のようなものです。ということは、流行から、これからどちらに転換していくのかを捉えることも、大事だと思いますね。

「生き生き働く」ヒント

幸福は、追求するものではなく自分の中に発見するもの

日本は、幸福度世界ランキングが低い。これだけ豊かなのに、人間が生き生きしていない。私は、働く人々のやりがいを高めるには、追求の対象としての幸福から、発見の対象としての幸福へと意識を変える必要があると思います。例えば、日本国憲法の第13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利…」と書いてありますが、米国独立宣言に由来する「幸福追求」に少し違和感を感じませんか。幸福には、自力だけでなく他力も不可欠なのです。『青い鳥』のチルチル、ミチルのように、幸福とは、自分が当たり前だと思って暮らしていた生活の中、あるいは自分自身に埋もれてるものを、発見するもの。要は物の見方なのです。

単線的な尺度で見ない

もう一つ提案したいのは、年収、偏差値、ランキングといった単線的な尺度で物事を判断しないことです。なぜそんなものがあるかというと、わかりやすいから。世界大学ランキングだって、自分がどの学科で勉強したいかとは全く関係ない。複数の尺度を、常に持っていることが大切です。

過剰な承認欲求からの脱却

他人の評価に依存しすぎるのも問題です。今、SNSで「いいね」を取りたいからと、それが自己目的化して話を盛ったりする例をよく耳にしますが、我々は一体誰から褒められたいのか、そこをちゃんと考えてやるべき。この過剰な承認欲求を自分の中できちんと断ち切るっていうことが必要だと思います。

そのためには、何もしない時間が大切

自分の生活をいろいろな角度からみて、一番「美しく」あるいは「生き生きとしていられる」ベストポジションを探すのもよいことです。そのためにはある種の知的な作業と心のゆとりも必要です。先ほどのスコレーですね。余った時間ではなくて、自分自身のために取っておくような余裕。今、よくないと思うのは、電車の中などでも皆スマホ。端切れの時間や生活の余白を全部、不必要な暇つぶしの情報で埋め尽くしている。それが人間の心をどんどん荒廃させている気がします。集中するためには、ぼーっとする遊びの部分もないといけないと思いますね。

oginohiroyuki_1-1.jpg幸福の主語とは何なのでしょう。
「幸福な私」だけでなく、「幸福な家族」、「幸福な国」、
「幸福な会社」もあるかもしれない。
つまり、自分が属すべき全体が最善になるように行動する。
「滅私奉公」とは違った、良い意味での歯車になることも大切です。

――荻野弘之

執筆/荻原美佳(ウィズ・インク)
※所属・肩書きは取材当時のものです。