AIのお手並み拝見語学力

人はもう英語を学ばなくてよいのか

近年、機械翻訳の進化が著しい。AI技術の革新を追い風に「Google翻訳」や「Microsoft Translator」などウェブ上で使える翻訳サービスも一段と精度が向上した。
「もう語学はAIに任せればいいという時代もそれほど遠くありません」
30年以上、機械翻訳の研究に携わってきた情報通信研究機構の隅田英一郎氏はそう語る。同機構が開発したスマートフォン用の音声翻訳アプリ「VoiceTra」は、31カ国語の旅行会話に対応。ほかにも特有のスタイルを持つ特許文書や、シンプルな文章が多いIT分野のマニュアルにも機械翻訳が活用されており、今後は科学技術論文の翻訳への応用も期待されるという。
また、医師と患者の会話を助ける医療用音声翻訳システムの実証研究や、話した言葉を即座に訳して字幕で表示する同時通訳システムの開発も進んでいる。
「近い将来、オフィスでも定型的な交渉や社内会議などは、機械翻訳で対応できるようになると思いますよ」

文法の勉強を卒業し、ビッグデータの活用へ

機械翻訳の進化をもたらしたのは、翻訳手法の革新である。当初は長らくルールベース翻訳という手法が主流だった。人間が外国語を学ぶのと同じように、文法規則と辞書を機械に覚えさせるというものだ。
ところがこの手法では、なかなか精度が上がらなかった。現実に使われる言葉は文法通りとは限らず、例外が見つかるたびに新しいルールを加えていくうち、システムが複雑化し、全体を見渡して改良を図ることがどんどん難しくなったからだ。また、この手法では人間が文法や単語を教え込むため、言語ごとに専門家が必要となり、時間がかかるうえに多言語化が困難だった。
これに取って代わったのが、統計翻訳という手法である。
「機械に大量の対訳データを与えて、『go』を『行く』と訳す確率は60%、この単語が並んだときに語順が変わる確率が75%などと、統計処理をして自動的に翻訳モデルを作成するというものです。翻訳のサンプルが大量にあれば、精度の高い翻訳ができるようになり、多言語展開も容易になりました」
そして現在は、第三世代のニューラル機械翻訳が主流になりつつある。大量のデータをベースに訳出する手法であることは統計翻訳と同じだが、現在のAIの主流技術である脳の神経回路を模したニューラルネットワークを用いることで、さらに精度が向上した。
隅田氏らが開発した音声翻訳アプリ「VoiceTra」も、ニューラル機械翻訳技術を導入している。

AI翻訳の実力を知りうまく使いこなしたい

「ただしAIを過信するのも危険です。高精度の翻訳ができるといっても、旅行、特許、医療など特定分野に限っての話。人間のように汎用的に能力を発揮できるわけではなく、たとえば医療用の翻訳システムに特許翻訳をさせても使い物になりません」
隅田氏が強調するのは、AIは精度の高い"道具"であるということだ。この便利なツールをどう使いこなすかは、人間が考えなくてはいけない。
社内会議のように、多少の言い間違いがあっても差し支えない場では、現状のAIの精度でも十分に活用できる。しかし、外交のように一言の訳出にも神経を使う場面では、語学のスペシャリストが担うべきだろう。「一般のビジネスパーソンは、もう語学はAIに頼ってよいと思います」
ある大学でこんなことがあった。学生が自力で書いた英作文は本人の英語力に応じた内容に留まったが、機械翻訳を使うと、言いたいことを100%書けたという。このことは、機械翻訳の活用によって、どのような言語下であってもその人が持つ100%の能力を発揮できる可能性を示している。語学力の高低が、人間の能力発揮に影響を与えない時代が到来するのだ。
「顧客の立場や状況を踏まえてニーズを満たす提案ができる営業は、AIに翻訳してもらえば外国人相手でも的確な交渉ができるはずです。ビジネスパーソンは、語学に関してはこの便利なツールをうまく活用して、それぞれのビジネス領域の専門能力を磨くことに専念すればよいのです」

Text=瀬戸友子Photo=平山論Illustration=山下アキ

隅田英一郎氏
国立研究開発法人情報通信研究 機構 先進的翻訳技術研究室室長。
Sumita Eiichiro 30年以上一貫して自動翻訳の研究に携わり、音声翻訳スマホアプリ「VoiceTra」、テキスト翻訳サイト「TexTra」をリリース。2017年からオール・ジャパンでさまざまな分野の翻訳データを集積する「翻訳バンク」(http://www2.nict.go.jp/ais/h-bank.html)の運用を開始。