研究所員の鳥瞰虫瞰 Vol.3「賃上げ」は企業の生産性を上げるのか?下げるのか? 中村天江

同一労働同一賃金、最低賃金…進む賃上げ

同一労働同一賃金を筆頭に、働き手の所得を増やす政策が相次いでいる。同一労働同一賃金の他にも、残業代未払いの摘発に、最低賃金の引き上げ。企業には、官製春闘とも称される政府からの賃上げ要請もなされている。
賃上げは、働き手にとっては大歓迎であるものの、企業にとっては人件費の増加につながり、コストの増加を招く。社員の満足度の向上や、人材の確保につながるとわかっていてもなお、企業が賃上げを進めていくことは決して容易ではない。
しかも企業は現在、賃上げだけでなく、法改正により、長時間労働の是正など、他の「働き方改革」も進めなければならない。通算5年を超える有期雇用の社員を、本人が希望すれば無期雇用に転換する、労働契約法のいわゆる「2018年問題」も間近に迫っている。
総合するとこれらは、企業の、これまでの人材活用のあり方を、根本的に見直すほどのルール改定である。このような環境変化の下で、いかに収益を上げていくのか、企業は頭を悩ませ始めている。

「生産性向上」というマジックワード

現在、生産性の向上もまた、企業の至上命題となっている。日本の労働生産性は低く、改善の余地が大いにあると考えられているうえ、人材不足や労働時間規制で、これまで通りの付加価値を出すことが難しくなっているためだ。先にまとめられた同一労働同一賃金の法整備に関する報告書でも、「教育訓練機会の均等・均衡を促進することにより、一人ひとりの生産性向上を図るという観点が重要」とされている。

ところが、この「生産性の向上」が、曲者だ。「生産性」とは、投入したインプットに対して、付加価値(利益など)などのアウトプットというところまでは、共通認識としてあるものの、人によって、場面によって、違うものをイメージしたまま、会話をしていることが少なくない。
国際比較でよく出てくる労働生産性は、国単位のもので、GDPを、就業者数もしくは就業者数×労働時間で割って算出する。分母を就業者数とするのか、就業者数×労働時間と時間当たりとするのかで認識が分かれることがあるものの、長時間労働の見直しがかかる中、労働生産性を時間当たりで把握する重要性は認識されつつある。
むしろ、問題なのは、労働生産性をどの単位でとらえるのかという点だ。国単位なのか、企業単位なのか、職場や組織単位なのか、はたまた社員一人ひとりの生産性の話なのか。社員一人ひとりの生産性を高めるのと、企業全体で生産性を引き上げるのでは、打ち手の優先順位が異なることは、大いにありえる。

人件費が増えれば企業の生産性は向上する

ここで、企業の労働生産性の算出式を確認しておこう。日本労働生産性本部によれば、時間当たり労働生産性とは、付加価値額を労働者数と労働時間で割ったもので(①式)、付加価値額とは、経常利益と人件費、企業運営費や減価償却費で構成される(②式)。item_works03_nakamura_nakamura1.png

②の付加価値額を分解したものを①式にいれると、③式が得られる。item_works03_nakamura_nakamkura2.png
そう、人件費は、労働生産性の分子に入る。分母ではない。つまり、他の要素を変えずに、人件費を増やせば、企業の労働生産性は上がるのである。
これまで、「人件費は労働生産性の分母」と断言する人や、そういう前提で話が進んでいく場面に、筆者は遭遇したことがある。かくいう筆者自身、人件費と労働生産性の関係を明確に理解しておらず、調べ直して、今に至る。
労働生産性は、投入したインプットに対し、産出したアウトプットを示すので、支払われた賃金が分子に入るのは当然である。人材への投資は、設備投資同様、中長期に渡って企業にリターンをもたらすものだと考えれば納得もできる。
だが、直感的には、人件費はコストでもあり、生産性の分母だと感じたりもする。この直感と、指標の算出式の乖離が、日々の働き方改革の中で生産性を議論する上では、看過できないポイントとなる。

企業が直面する「人材と利益の複雑方程式」

企業は今、賃上げ、労働時間の適正化、有期社員の雇用安定化という3つの要請に直面している。これらは、下図のように、労働生産性の分母・分子にプラス・マイナスの相反した影響を与える。item_works03_nakamura_nakamura3.png

利益を維持したまま、賃金を上げることができれば、生産性は上昇する。労働時間を削減しても、利益や人件費を維持できれば、生産性は向上する。有期社員の無期転換は、事業規模が縮小したときに雇用維持が必要になるという点で、生産性を下げるとも考えられるが、人材不足によって、そもそも付加価値の産出が危惧される企業にとって、無期転換による社員の確保は、生産性の向上につながる福音だ。
しかし、現実には、企業が、何もせずに人件費を増やせば、ゼロサムで利益は減少する。時間当たりの効率性を高めずに労働時間を短縮すれば、利益は維持できない。労働者が不足すると、今まで同様の利益は出せなくなるし、余剰人員がいても利益率は低下する。
つまり、企業は今、極めて複雑な、人材と利益の方程式を解かなければならない状態にある。

「個人の生産性」と「企業の生産性」をつなぐ

企業が収益を上げてこそ、社員に、安定した雇用と、より高い賃金を提供することができる。賃上げ、雇用安定、労働時間削減、これらの3つのピースを、どのように組み変えていけば、企業は収益を上げていけるのだろうか。
それには、人材活用のあり方を包括的に見直し、「生産性」というマジックワードを紐解く必要がある。企業、組織、個人のどのレベルの生産性を軸に、何を生産性の分子とみなして、企業の競争力を高めていくのか。そのためには、どのような人材ポートフォリオと人事制度が適切なのか。
賃上げは、社員の意欲を高め、一人ひとりの生産性向上の強力なブースターとなりえる。個人の生産性を、組織の生産性とつなぎ、企業の生産性に昇華する。それには、組織の付加価値の再定義と、その実現に向けた人材のマネジメントの変革が不可欠だ。
賃上げ、雇用安定、労働時間削減という3つの要請に応え、収益を上げていく。そんな人材マネジメントのあり方の模索が始まっている。

中村天江

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