Column

VR/ARが人事に迫る“遠隔と存在”の新たなHRM
藤井薫 

プラトン・アリストテレスをも悩ませた <存在>とは何か?
つまるところ、<存在>とは何か?
いきなりで恐縮だが、この素朴な問いに、人事プロフェッショナルの皆さんなら、どんな風に答えるだろうか?
面と向かって<存在>とは何か?と問われると、まさに面食らってしまうのではないだろうか。

今から約2500年前、古代ギリシャ哲学者にして西洋哲学の源流を開いたプラトンの書には、この問いを前にたじろぐソフィストが描かれている。「<存在する>という言葉を使う時に、(中略)われわれの方では、ひところでこそ分かっているつもりだったのに、今では途方に暮れている…」(244a)(プラトンの対話篇『ソフィスト』)

弟子のアリストテレスもこう語る。 「いつも繰り返しそこへ通じる道を見いだせないでいるもの、それは存在者とは何かという問いであり、つまるところ<存在とは何か>という問いである」(『形而上学』第7巻第一章、1028b2)
<存在とは何か>を問うことは、プラトン・アリストテレス以来の西洋哲学の根本の問いであり、メタフィジカル(脱身体的)な観念を持ちうる人間だけの深淵な営為なのかもしれない。

こんなエピソードもある。「人が最も恐怖を感じる場所って、どこだか分かりますか? いろいろ考えたのです」。およそ20年前に、ホラー映画『りんぐ』『らせん』の生みの親で小説家の鈴木光司さんに、インタビューした時に教えていただいた話である。
記憶では、人の右か左後方45°30cmぐらいの場所。そこに人がいたとしたらどうだろう。『りんぐ』『らせん』のイメージも手伝い、人の気配を背後に感じ、猛然と身の毛が立ったことを今でも覚えている。

見えそうで見えない、いや、実際にはいないのに、身体的に実感できる。かつ、実際に見えるよりも、イメージが拡張され、現実より感情や行動が変容する。
こんな、フィジカルとメタフィジカルを往還する、身体—脱身体の連関的な<存在>観念を持ちうるのも、人間だけの深淵かもしれない。

「あの人には、存在感がある」「ここにしか、存在しないものがある」「時の流れが、その存在を忘却させた」そして、「見えないのに、何故かすごく感じる」。
ある時は人に宿り、ある時は場所に宿り、時の流れと共に、生成消滅する。そしてある時は、現実以上に迫りくる……。
かように<存在>には、多義性がある。厳密な定義は別としても、<存在>は、時と場合と主観で異なり、時間と空間と人間(人と人の間の意のじんかんと呼びたい)で、うごめいているのだ。これは多様な人材に向き合う人事にとっても他人事ではないのではないだろうか。

<遠隔>で実感できるとしたら、<存在>とは人事にとって何か?
『Works』131号の特集記事「バーチャルリアリティーが人と組織を変える日」。そこでは、VR/AR(Virtual Reality/ Augmented Reality=実質上の現実/拡張現実)が人と組織の未来を変える、新たなHRMへの可能性を探るため、VR/ARの最先端研究者と人事プロフェッショナルに取材を行った。その果実や留保するポイントについては、記事を参照いただきたいが、取材中、筆者の頭の中を常に巡っていたのは、まさにこの「<存在>とは何か?」という問いだった。
働く人々をオフィスから解き放つVR技術や、人々の世界像を拡張するAR技術は、人々が空間・時間・能力的に離れていても、共感協働をできる道具。
VRの一分野であるテレイグジスタンス(Telexistence、遠隔臨場感、遠隔存在感)では、遠隔地にある物(あるいは人)があたかも近くにあるかのように感じながら、操作などをリアルタイムに行う環境を構築する技術で、災害地や医療過疎地だけでなく、製造や経営ボードミーティングなどでも既に活用されている。

当然、採用面接も、育成・トレーニングも、配置やワークプレイスなど、HRMの分野にも、直接、面と向かわなくとも可能になる道具立てが早晩、浸潤していく。<遠隔>で<存在>を実感できる技術は、人事を取り囲む環境三要因の造語GDP(Global、Diversity、Productivity)、いわゆるグローバル化・多様化対応や生産性向上への切り札とも言える。

しかし、取材では、「直接、あった方がいい」という声も、多く聞かれたのだ。
実際、Google Glassを始め、AR技術を推進するGoogleのような先端IT企業でさえも、肩の触れ合うようなオフィスを重視している。
「直接、会った方がいいか」「直接、会わなくてもいいか」。この判断の裏には、<臨場感>や<存在感>、突き詰めると、やはり<存在>がうごめいている。
世界的な知能ロボット学者の大阪大学特別教授 石黒浩氏によれば、人の存在を認識するには、最低2つの感覚要素が表現されていればいいらしい。声+体、見かけ+体、匂い+体、声+匂い。
やはり、私たちの<存在>の認識には、身体は欠かせないのだ。

「わざわざ来たから信頼できる」「初回は、会わないと……」「言いづらいことは会わないと……」「人型ロボットが掃除機のようによろよろ近づいてくるとつい助けたくなる」。こんな声が聞こえるのも当然である。
<遠隔>なのに<存在>を感じられるかどうかは、フィジカルにかかっている。いわゆる<身体性>である。
では、<身体性>とは何か? 筆者は、これを<有限性><一回生>と解したい。VR・ARで空間的・時間的に離れていても、その時、その場で関わる本人にとっては、一回限りの有限の瞬間である。有限な身体を持つ人間だからこそ、その身体をもって表現せざるを得ない。受け止める側も、相手の身体をまず認め、その身体をもって伝えられる表現を受け止めないと、相手を共感しづらい。

この<一回性>を巡る共感の文化装置、言い換えれば、同じ有限の<一回性>を生きるもの同士としての共感の相互作用こそが、<存在>にとって不可欠なのかもしれない。
「会った方がいい」とは、畢竟、同じ<一回性>を共存している<運命共同性>を重視しているからなのではないか?
「出来る」と「(一緒に)いる」は異なる。「(一緒に)いなくても、出来ればいい」と「出来ても、(一緒に)いないと(運命共同的に)ダメ」。この組織が持つ二重原理が、人材を身体的・時間的に束縛する見えないドグマになっているのではないだろうか。
2500年前の<存在>とは何か?の問いは、VR/ARを手にした現代の私たちにとって「<遠隔>でも希釈しない<存在>とは何か?」という、遠隔での一回性の共存とは?という深淵な問いに昇華している。これは、人事の<存在>に関わる大きな問いだと思うがいかがだろう。

最後に、二十世紀の大哲学者ハイデガーの『存在と時間』から意訳して締めたい。
「存在をことさらに<それは何であるか>と問う時、存在の始源の調和は敗れる」「それは本質存在か、それは現実存在と区別している場合ではない!」
VR/ARが人事に迫る“遠隔と存在”は、“本質と現実”を区別しないことから始まる。まさに実質上の現実Virtual Reality、現実に実質を重ねるAugmented Realityの予言である。

藤井薫

 


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