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  Home > SPECIAL THEME > 「成長の危機」Webサイト特別編 後編(1) 2005年9月
 「成長の危機」Webサイト特別編 後編(1)
SPECIAL THEME Works Institute
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「成長の危機」Webサイト特別編
ハプンスタンス・アプローチと成長の危機
後編(1) 個性派社長2人のハプンスタンスin沖縄 竹田さんのケース
「予期せぬ出来事を積極的、肯定的にとらえる」−−米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授が提唱するハプンスタンス・アプローチは、組織と個人の「成長の危機」克服にも大きな示唆を与えてくれる。このWebサイト特別編では、まず前編として慶応義塾大学SFC研究所キャリアリソースラボラトリーのシンポジウム「ハプンスタンス・アプローチの最新動向」(6月28日、慶応義塾大学三田キャンパスで開催)における、クランボルツ教授の講演をレポートする。続いて後編では、ハプンスタンス・アプローチの生きた事例として、沖縄で事業を展開する個性派社長お2人の物語と、高橋俊介・慶大大学院教授によるまとめ(Wrap−Up)をお送りする。
- 目次 -
 前編 提唱者クランボルツ教授の講演レポート
 後編 個性派社長2人のハプンスタンスin沖縄
 (1) 竹田誠さん(マコト・オリジナル・グッズ社長)
 (2) 三上伸司さん(ブルーム社長)
 (3) 高橋俊介先生のWrap-Up
出会いに導かれたキャリア
沖縄で「天職」を見つけた
有限会社 マコト・オリジナル・グッズ
代表取締役 竹田 誠さん
竹田誠氏
1979年夏、沖縄・久米島。太陽が降り注ぐビーチの露店で貝細工の土産物を売る若者がいた。屋台にはいつも客が集まっていた。特に若い女性たちに人気だったという、土産物屋のあんちゃん――。那覇市で130人の従業員を抱えるマコト・オリジナル・グッズ社長、竹田誠さんの原点だ。現在は泡盛の「古酒家」、琉球ガラスや焼き物を扱う「鍵石(キーストーン)」など、那覇の繁華街・国際通りで、東京・青山にもありそうなおしゃれな土産物店を経営する。経営者になった今も、その軽妙な語り口は健在だ。
元祖フリーター、環境を変えたくて沖縄へ
神奈川県川崎市で生まれ育った竹田さんが沖縄へとやってくることになったのは、母親にこう言われたからだった。「そんな生活をしていたら、ろくな者にならない。考えを改めてどこかに行ったら」。定時制高校に通いながら六本木でバーテンダーの仕事をしていた竹田さんは、すっかり夜の生活になじんでしまい、高校を卒業してからは酒のにおいをさせて朝帰りするような毎日を送っていた。そんな息子を心配した母親からの助言を聞いて、早速行動を起こした。新しい生活を始めるなら、まだ行ったことがなくて知り合いもいないところがいい。友達がいるとすぐ元の生活に戻ってしまうかもしれないし、そもそも他人に頼るのは嫌いな性格だ。野宿しても困らないことを条件にして、沖縄に行き先を決めた。当時は、「2、3カ月バイトをしながら東京まで戻ってこよう」と思っていたそうで、移住するつもりはなかったという。

1978年夏、10万円を持って那覇空港に降り立った。空港から 20kmは離れた恩納村のビーチまで、歩いて行こうとするほど右も左も分からない状態だったが、どうにか近くの漁村にあったユースホステルに落ち着いた。アルバイト先が見つからず困っていたとき、与論島に向かうフェリーの中で、ムーンビーチ(沖縄本島・恩納村)での住み込みアルバイトを見つけた。1日 12時間労働、露店の店番や空き缶拾いなどの仕事は、決して楽ではなかった。半年ほどたったとき、自動車事故を起こして借金を抱えてしまい、返済のためにもっと給料の高い土木作業員に仕事を変えた。竹田さんはこのころを「バイト料は安くて大変なこともあったけど、ムーンビーチでの体験は衝撃的だった。明るいビーチで女の子たちに囲まれて、何て楽しい世界だと。これはオレの『天職』だと思った。でも、もっと自由に楽しく過ごすためには、人に使われるのではなく自分で商売を始めなければと思った」と振り返る。

借金を返済し、さらに 60万円の資金をためた竹田さんが向かったのは、当時人気の高かった与論島だった。夏のピーク・シーズン前に渡り、商売を始められるか探ったが、店を借りる権利金の高さに断念。当時全日空がリゾートホテルを開発し、売り出し中だった久米島へと向かった。しかし、ここでも店を開く場所の確保に苦労したという。ようやく許可をもらった民宿の軒下で営業を始めた。沖縄に来て 2年目の夏だった。屋台の土産物屋では、問屋から貝細工を仕入れて販売。月に 200万円を売り上げたが、商売としては成り立っていなかった。夜になるとその日の売上金を握りしめて飲みに行ったり、かわいい女性客が来たら店を閉めて遊びに行ったり、いい加減だったからだ。ライバル店から嫌がらせを受けたこともあり、夏の終わりとともに撤退を決めた。
チャンスをつかんだ久米島
竹田誠氏
その後いったん沖縄を離れ、大阪へと向かうが、また沖縄に舞い戻る。今度はペンキ屋で働きいて開店資金を蓄えた。前年の経験から「ライバル店のやつらを見返すためにも、ホテルのテナントに入りたい」と考えていた竹田さんは、ペンキ屋で働きながらホテルに電話営業をかけていた。夏を前に久米島入りすると、民宿に泊まりながらホテル内に出店しようと営業。熱心な働き掛けに加え、友人のホテル従業員の紹介もあって、全日空ホテルの担当課長が直接話を聞いてくれることになった。

竹田さんは、そのときのことをこう語る。「担当課長から『企画書を持ってこい』と言われたが、僕は思わず『企画書って何ですか』と。だってそんなもの書いたことなかったから。どうにか書いて持っていったけど、ホテルの総支配人はそれを見て固まってしまったんだよね」。にもかかわらず、担当課長は竹田さんに企画書の書き方を教え、ホテル内への出店を後押ししてくれた。露店での客を楽しませる竹田さんの仕事ぶりを評価していたからだ。竹田さんが「軟派なようで筋は通す」性格の持ち主であることをも見抜いていたのかもしれない。

1980年、沖縄 3年目の夏。久米島のホテル内に可動式ワゴンで営業を始めた。ホテル側の読みは正しかった。オープン翌年には年間 3000万円を売上げ、ホテル側にはテナント料として売り上げの 20%、600万円が支払われた。竹田さんが土産物を売るワゴンの周りはいつも人だかりで、ホテルの通路にアトラクションを提供した格好になった。順調に売り上げを伸ばす一方、仕入れや投資の失敗も経験した。新たに万座ビーチ(沖縄本島)にリゾート施設ができた影響で、久米島を訪れる観光客数が伸び悩んでいたこともあり、新展開を求めて那覇に向かった。1983年、竹田さん 25歳の秋だった。
国際通りで沖縄と東京のセンスが融合
那覇に来て事務所を借り、店舗物件を探し始めた。だがすぐに、国際通りに出店することの難しさを知った。竹田さんは言う。「コネがあるわけじゃなし、まとまった資金もなかった。そんなのが店を出せるところじゃない。仕方がないから事務所で昼間から酒を飲んで、国際通りをぶらぶらしながら物件を眺めて、夜にはまた飲み歩いていた」。

竹田誠氏そんな生活を 1カ月くらい続けたときだった。「事務所の階下に住んでいたヤマ師みたいな老人に、『若い者が朝からだらだらしていたらだめだ。喫茶店のモーニングを食べに行こう』と誘われた。何でこんな怪しげな人と朝めし食べなきゃならないんだと思いながらも、時々飲みに行くようになった。するとその老人が、会計事務所で働く地元の若者に引き会わせてくれた。何とその若者は偶然にも、久米島のホテルでお世話になった、会計事務所の人だった。その人は地元の資産家の息子でもあり、国際通りの物件探しに必要なコネも持っていたんです」。その人物をパートナーに、国際通りで最初の店舗を構えた。店の雰囲気や品ぞろえが都会的でおしゃれだったことが受け、順調なスタートを切った。しかし、売れる商品はすぐにほかの店も仕入れるようになる。竹田さんの店でも周りの店で売れている商品を置くようになると、開店当初の都会的な店のコンセプトは次第に失われていった。売り上げの 30%を占める変動式家賃の負担を軽減する狙いもあって、国際通りで固定家賃の新店舗を開店することになった。

開店の前に、もう一度店のコンセプトを考え直した。「新しいものを次々と考えるのにも疲れていたし、流行を追ってもきりがないことも分かっていた。もともと老舗らしい店づくりというアイデアを持っていたから、沖縄の伝統的なものを取り入れた専門店にしようと決めた」。沖縄の工芸品を主に扱う現在の鍵石(キーストーン)と、泡盛を主力商品に据えた古酒家のコンセプトは、このころに輪郭が出来上がった。沖縄の伝統的産品に着目した土産物店は、決して目新しくはない。だが鍵石や古酒家では、工芸品と泡盛の専門店としたのがポイントだった。それ以外のものは、たとえ売れ筋であっても置かない。ないものはほかの店で買ってもらって構わないと割り切り、店に統一感を持たせてブランド化に成功した。古民家風にするため店の内装にもこだわり、商品の並べ方にも気を配る。竹田さんの経営する店舗から受ける洗練された感覚は、こうしたこだわりから生まれた。
沖縄には感謝。でも、固執はしない
竹田さんにとって沖縄は、天職に出あい、自分を育ててくれた場所だ。感謝の対象で、もちろん大好きな場所だ。だから「まだまだ力不足だけれど、事業を通して沖縄社会に利益を還元する責任もある」と言う。利益率は低くても県内産工芸品の販売を続けているのも、沖縄の伝統工芸品の魅力を理解しているからだ。だが「ほかの場所で商売をしたくなったらそうするかもしれない」とも語り、ひとつの価値観や場所にこだわらず、自由に生きたいという。27年前にふらりと沖縄にやってきたときのまま、柔軟な心は失っていない。
(文:向江 睦 写真:青塚博太 編集:五嶋 正風)
[メモ]
有限会社マコト・オリジナル・グッズ

1984年設立。本社沖縄県那覇市牧志。沖縄工芸品専門店や泡盛専門店などの土産物店を那覇市内に 11店舗展開。沖縄の伝統工芸、食品、泡盛にこだわった店舗づくりをしている。年商 16億円。従業員数 130人。
プロフィール 竹田誠(たけだ・まこと)

1957年生まれ。神奈川県川崎市出身。21歳のとき沖縄へ。最初は貧乏旅行のつもりだったが、商売を始めて移住。1984年、有限会社マコトトレーディングカンパニー設立(後に現在のマコト・オリジナル・グッズに社名変更)。同社代表取締役。現在、那覇市内で、沖縄伝統工芸品の専門店「鍵石(キーストーン)」、泡盛の専門店「古酒家」などを展開する。
- 目次 -
 前編 提唱者クランボルツ教授の講演レポート
 後編 個性派社長2人のハプンスタンスin沖縄
 (1) 竹田誠さん(マコト・オリジナル・グッズ社長)
 (2) 三上伸司さん(ブルーム社長)
 (3) 高橋俊介先生のWrap-Up
※「成長の危機」はWorks本誌でも連載中です。このWebサイト特別編と併せてご覧ください。
第1回 環境・組織・個人に何がおこっているのか
第2回 顧客接点に生まれたプロフェッショナル
(2005年9月21日掲載)

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