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教育問題を専門とし、アンケート調査とその分析に日々取り組んでいる私が、しばしば直面する悩ましい問題がある。「習得している知識・能力をどのように測定するか」という問題だ。知識・能力はどのように形成されるのか。初等・中等・高等教育それぞれの役割は何なのか。あるいは逆に、どのような知識・能力を持っていれば、与えられる教育機会を有効に使えるのか。こうした問いを実証的に考えようとしたとき、知識・能力を測定し、その結果と教育経験との関係を分析することが必要になる。
まず思い付くのは学校の成績を使うというアイデアだ。確かにその意見には一理あり、調査で成績を尋ねることもある。問題なのは、学校の成績では「教科科目」の知識・能力しか分からないことだ。国語や数学といった教科、あるいは大学で専攻した専門分野の知識・能力なら、成績が有用な変数になる。しかし、それ以外の知識・能力、例えば一般常識や問題解決能力の習得状況を知りたいとき、成績にかわる変数で情報を集める必要が出てくる。
ならば、何らかのテストを作成し、その得点を使えばいいといわれるかもしれない。しかし、アンケート調査でその測定方法を取り入れるのは不可能に近い。まず、測定したい知識や能力が多岐にわたる場合、それだけのテストが作れるかどうか。これはかなり疑問だ。調査者自身になじみのない分野の問題作成はいうまでもなく、なじみのある分野の問題ですら、そのテストの精度を高めるのは至難の業だ。テストの作り方自体が、一つの学術分野になっているぐらいなのだから。それにそもそも、調査対象者が割ける時間や労力にも限度がある。テストという、非常に骨の折れる作業を含めた調査をお願いすることはなかなかできないし、協力者も極端に少なくなってしまうだろう。
そういう事情から、私たちがよく用いるのは、知識・能力の自己評価という方法だ。ある知識・能力の習得状況について、自分で判断し、答えてもらう。「身に付いている」のか、「身に付いていない」のか。いくつかの段階に分けた尺度(一般的には3〜5段階)を設け、協力者自身が判断し、回答する。自己評価、つまり客観的ではないという点で危うさは否めないが、アンケート調査ではこのあたりが限界であるようにも思う。
一口に自己評価といっても、さらに2つの方法がある。一つは、絶対的尺度による評価だ。「あなたは、○○の知識・能力(例えば、語学力)について、どの程度身に付けていると思いますか」と質問し、それに対して「身に付けている」「身に付けていない」のいずれかで回答してもらう。もう一つは相対的尺度による評価だ。この場合、「あなたは、○○の知識・能力について、同級生と比べた場合、どの程度身に付けていると思いますか」という質問になる。
絶対的尺度と相対的尺度のどちらを選択するべきか、何らかの基準があるわけではない。調査の狙いや枠組み次第というところなのだが、回答者の立場からすれば、判断にあたって比較対象が設定されている相対評価法の方が答えやすいだろう。これまでは単純にそう思ってきた。
「単純にそう思ってきた」。こう書いたのは、リクルートワークス研究所の客員研究員として実施した、ミドルが対象の調査で、自己評価の方法についてあらためて考えさせられる出来事があったからだ。
2007年度にワークス研究所が掲げたテーマの一つに、「ミドルの成長・ブレークスルーを実現する道筋を明らかにする」がある。このテーマのもと、私はミドル自身による能力開発、自己学習のあり方を探ってみようと考えた。ミドルの人たちは、今、どのような自己学習を試みているのか。その学習行動の背景に何があるのか。有意義な自己学習活動を支えるために、企業ができること、できないことは何か。その答えを探るため、金融・商社に勤務するミドル20人を対象に、インタビュー調査を実施した(調査結果のレポートは、『ワークス』88号(6月発売)や論文集『Works Review 2008』に掲載される予定)。
インタビューでは、ミドルたちにさまざまなことを尋ねた。平日の生活、週末の生活、家族との関係、今取り組んでいる仕事の内容、新人時代の過ごし方、将来展望……そして、業績や昇進に関する自己評価も下してもらった。業績・昇進状況と自己学習との間に、何か関係が見いだせるかどうかを検討したかったからだ。「同期の中で見て、あなたの業績は高い方ですか」「あなたの昇進スピードは、同期の中で見て、どのような感じでしょうか」。こうした質問を、インタビューの中で投げ掛けてみた。
相対的尺度の質問にしたのは、先にも触れたように、そのほうがミドルたち自身にとって答えやすくなると考えたからだ。だがこの質問に対するミドルたちの反応は、意外に答えにくそうで、鈍いものだった。「同期ですか? かなり転職しちゃったからなあ」。「入れ替わりが多くて、誰を同期として見ればいいのか、わからないのですが」。「自分自身、転職組なんですが、どのへんを同期と見なせばいいのでしょうか」。こうした回答があまりに多く、上記の質問に即答できたミドルは数えるほどだった。金融・商社に限った話なのかもしれないが、雇用の流動化が進むのに伴い、社内での働きぶりや位置づけを同期の中で明らかにすることが、非常に難しくなっているようだ。
きずなが強く、相談し合い、ときにはライバルにもなる友人は"同期"にいるものだ。学校では学年制が徹底され、会社に入っても同期意識は温存されてきた。その先には一つの会社に長く勤め続ける終身雇用制もある。このような考え方が標準的だった日本社会では、とりわけ同期の役割が強かったように思われる。「同期の桜」とはよくいったものだ。だが「同期の桜」という感覚は、希薄になりつつあるようだ。
昔の方がよかったといいたいわけではない。雇用の流動化によって働き心地がよくなった面も多々あるだろう。それに、友人は同じ会社にいなければならないということもない。転職した後も、友人関係を続けることは可能だし、違う領域で働いている者同士の方が刺激も多いかもしれない。
ただ、同時に思うのは、少なくとも会社の中での位置づけを確認するには、やはり同期が一番よい「物差し」になるのではないかということだ。その「物差し」がぐらつきつつある今、ミドルたちは自分の立ち位置が分かりにくくなり、さまよっているということはないだろうか。ただでさえ見通しがつきにくい自らのキャリアが、同期がいなくなっていくことで、さらに見えにくくなってはいないだろうか。
いたずらに流動化を推し進めるのではなく、組織内での「同期の桜」の意味もきちんと考えていく。流動化の流れが回避できないものだとしても、同期あるいは同年代の交流の場をより多く設けていく。そんなことが今の企業や人事には、求められているのではないかと思う。
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