2014年度研究プロジェクト

石川治江カルチャーショックと怒り。
無縁だった福祉の世界に飛び込む

その後、結婚と「命からがらの出産」を経て、石川氏は飲食店業を始める。自ら「飽きっぽい」と言うだけあって、従前とは畑違いの居酒屋や喫茶店経営に乗り出したのである。それでも、IWS時代に培ったビジネススキルと持ち前の独創性で、商売は大繁盛。「めちゃ儲かっていたのよ(笑)」。大きな転機が訪れたのは、80年代に入ってすぐの頃だった。友人に誘われて訪問した授産施設で知った現実。それが、石川氏を福祉の世界へと導いた。

授産施設は初めてで、ほんと何気なく友人について行ったのです。そこで目に飛び込んできたのは、作業場で、脳性麻痺などの障がいを持つ人たちが並んでタイピングをしている光景。大変そうだとか、そういうのじゃない。とにかく生まれて初めて見る光景だったから、私は頭が真っ白になるほどのカルチャーショックを受けたのです。

加えて、今はだいぶ違うでしょうが、あの頃は施設での生活は様々な行動規制がされていて、例えば髪すら自由に伸ばせない。外出もままならず、国鉄(当時)に乗るには2日前に申請しなければいけないとか、現実を知るたび、私には「何で? 何で?」ですよ。そして「これは何ということだ」という怒りも湧いてきた。やはり原点はここですね。

やがて私は、彼らと共に、駅にエレベーターの設置を要求する運動を始めました。東京都の立川駅でそれが実現したのは97年。16年の歳月を経て、5基のエレベーターが設置されました。時間はかかったけれど、この運動は全国に波及し、日本の移動運動(移動の権利を保障する運動)のきっかけになったと思います。

エレベーター設置運動と並行して、石川氏は、「施設を出て地域で暮らしたい」という障がい者の要望、生活を支えるボランティア活動にも勤しんだ。その過程で「命のすごさに圧倒された」石川氏は、営んでいた商売を手じまいし、持てる力をすべて福祉の世界に注ぐようになる。非営利の民間福祉団体「ケア・センターやわらぎ」(2000年にNPO法人格取得)を立ち上げたのは87年、40歳の時だった。

人が自分の意思で生活していくのは当たり前でも、障がい者にとっては極めて大変なこと。彼らのためにアパートを借り、生活用品をそろえても、暮らすためには常に人の手が必要になります。当初は、私みたいな元気なおばちゃんたちが頑張っていたんだけれど、安定的な人手確保はすごく困難で、やはりボランティアでは限界がある。活動は全部自腹を切ってやっていたから、年々、清く正しく貧乏になっていくし(笑)、すってんてんにもなった。

在宅ケアを継続保証するにはどうすればいいか。誰でも、いつでもどこでも、必要な時に当たり前にサービスを受け取れるような社会的な仕組み。それを構築したくて、暗中模索のなか立ち上げたのが「やわらぎ」です。

運営費は、利用者の会費と行政の助成金、活動賛同者からの寄付金などで賄い、利用者が支払う介助料はすべてワーカーや看護師に支払う。つまり私たちの立場は、サービスの利用者と提供者をつなぐ非営利の仲介者。24時間365 日のニーズに応えるためには、これ以外の方法は考えられなかった。

当時は、そんな発想がなかったから「有償のサービスは障がい者の生きる権利を侵略するものだ」と、様々な活動家から責め立てられたものです。でも、違うでしょう。我々と同じように、障がいを持つ人たちが地域で生活すること、これは当然の権利として保証されるべきだし、その機能を継続させる社会的システムは必要なのです。手助けのニーズがあれば、社会に張り巡らされた“網の目”のどこかに引っかかり、必要なサービスを受けられる――私はそんな仕組みをつくりたいのです。

2015年04月17日