インタビュー 『社会リーダー』の軌跡徳重徹氏 テラモーターズ株式会社 代表取締役社長

東京、渋谷のセンター街にほど近い雑居ビル。その5階に、国内トップの電動バイクメーカー、テラモーターズの本社がある。といっても1フロアを占めているわけではなくごく一部、しかもレンタルオフィス。仕事場は四畳半サイズ、3人も入ればいっぱいだ。壁にセロテープで貼られた標語、「アップル、サムソンを超える企業になる」がいやでも目を引く。身なりに金はかけないが、志は滅法高い、まるで昔のサムライのようなベンチャー企業。率いる徳重徹氏はいかにつくられたのか。

君は夜逃げしたことがあるか
起業家の本を山ほど読んだ

徳重氏は読書家だ。狭いオフィスの壁も本棚で埋め尽くされている。なかでも徳重氏が好むのが明治から現在に至る起業家たちの本である。4人も入れば満員の、これまた小さな会議室に現れ、上背のある身体を折り畳むように座り、社会リーダーの話に水を向けると、勢いよく話し始めた。

経営者含め、日本のビジネスパーソンは昔の起業家のことを知らなすぎます。たとえば、新日鉄の会長だった永野重雄さん。名前だけは知っているという人がいるかもしれませんが、この人がいかにすごいかは知らないでしょう。この人には『君は夜逃げしたことがあるか』(にっかん書房)という著作があるんです。もともと富士製鉄の社長で八幡製鉄との合併を成功させて新日鉄をつくった人で、日本商工会議所会頭を長くつとめ、戦後を代表する経済人の一人です。そんな重鎮が資金繰りがうまくいかなくなって実際に夜逃げしたことがあり、こんな題名の本を著しているんです。すごくないですか?

日本の鉄鋼業は戦後、世界を席巻します。その基礎をつくったのがこの永野さんです。どういうことか。戦後、通産省のお役人は日本の産業を復興させるフロントランナーになるべきは繊維業だと考えました。何よりお金がないですから、設備投資が安くて済む、そういう軽工業から先に立ち上げようという考えは理にかなっています。

ところが永野さんはそうは考えませんでした。日本はなぜ戦争に負けたのか。重工業の発達が遅れていたからだ。戦前とは違う平和国家を目指すにしても、重工業は大切だ。なかでも、「鉄は国家なり」。自分たち鉄鋼業が強くなければ、日本の将来は安泰ではないと。でも鉄鋼業は設備産業ですから、お金が要る。それで、当時の首相吉田茂の力を借りて世界銀行の総裁を日本に招いて大盤振る舞いし、多額の融資を引き出すことに成功。さらに朝鮮戦争という"神風"も吹いて、日本の鉄鋼業の隆盛が実現したのです。

永野さんのすごいのはロジカルシンキングで行動しなかったことです。政府が「復興は繊維でいこう」と号令し、実際、鉄鋼業にまわるお金も設備も人材もないなか、「繊維ではなく、今の日本に最も必要なのは鉄鋼業だ」と肚決めし、そのためには何をすればいいかを真剣に考え、果断に行動した。彼をつき動かしていたのは一種のクレイジーさ、狂気ですね。自分の懐が暖まることや、出世や、自社の成長、そんなことばかりを考えるのではなく、日本という国の将来を深く考えていたのでしょう。

こうした狂気が今の日本のビジネスパーソンには欠けています。リーダーシップの原点は「いかにうまくやるか」を考えることではなくて、「何をやるべきか」を決めること。ところが本屋にいけば、リーダーシップのマニュアル本、効率をあげるための本、小手先のテクニックが書かれた本ばかり。そういう本より、「これが必要だから何としてもやるんだ」というリーダーシップの本質が学べる、昔の経営者の本をもっと読むべきです。

日本では偏差値の高い、頭のいい人ほど現実的です。でも、そういう人にはリーダーはつとまらない。新しいことを切り拓き、今はまだないものをつくるわけですから、できるできないは別にして、これこそが必要だ、という発想ができなくては、つとまらないのです。

この永野さんの他にも、浅野セメントの創業者で京浜工業地帯の生みの親でもある浅野総一郎、みずほ銀行の元となった安田銀行をつくった安田善次郎、戦後になればソニーの盛田昭夫、本田宗一郎など、私淑している昔の経営者は山ほどいます。

アップル、サムソンを超える
日本発のメガベンチャーをつくる

テラモーターズは2010年4月創業。電動バイク、電動シニアカー市場で、設立2年後に販売台数4000台を達成し、同分野で国内の首位のメーカーに。現在はベトナム、フィリピン、インドに事務所をもつ。徳重氏はバイクのエンジニアでもなければ、バイクメーカーに勤務していたわけでもない。徳重氏はどんな考えで同社を立ち上げたのか

日本企業の新しい成功モデルをつくりたいんです。最近は少しましになりましたが、日本では成功したベンチャー企業といっても、せいぜい売上げ10億から20億円くらいで、上場しても大して伸びない。一方の大企業も情けなくて、一部を除き、なかなか変革ができません。そこで働いている人たちは志もなければ、仕事のスピード感もない。それではグローバル競争に勝つことはできません。アジアに行くと実感するんですけれど、今や家電はサムソンやLGの独壇場です。パナソニックもソニーも見る影がありません。

どうしたらこの閉塞感を打ち破ることができるのか。自分で日本発のメガベンチャーをつくろうと思ったんです。

ベンチャーの聖地といえばシリコンバレーです。グーグル、テスラモーターズが有名です。日本にはシリコンバレーのような場所がないからメガベンチャーが育たない、という意見がありますが、そんなことはありません。中国にもインドにもメガベンチャーが続々生まれています。サムソンだって、2000年ごろまでは中堅企業に過ぎませんでした。

アメリカもそうです。今、アメリカの国内テレビ市場のトップメーカーはヴィジオという、たかだか10年の歴史しかない企業なんです。シリコンバレーとはまったく関係がありません。日本以外の世界にはこういう例が山ほどあります。

スポーツの世界では、野球では野茂、サッカーでは中田のような選手が出てきて世界で堂々とプレーするようになると、俺も世界でやりたい、という後進が山ほど現れました。日本人は引っ込み思案だから、誰かが手本を示さないと、自分から前に出ることなんて考えない。僕は企業経営という分野で、それを実現したい。世界市場、特にこれから急成長するアジアで活躍するプレイヤーになりたいのです。

父親が星一徹タイプ
起業家にだけはなるな

徳重氏は山口県の片田舎で生まれた。産業といえば漁業しかなかった。父親は教育熱心な反面、非常に厳格だった。「家訓」の一つが「起業家にだけはなるな」。父親の父親、つまり徳重氏の祖父が起業家だったことがあり、一時は経営が順調だったものの、父親が中学生の時、会社が倒産、地獄を見たのだ。父親は息子が国立大学に行き、地元の一流企業に就職してくれることを望んでいた。徳重氏もそうした親の期待を背負って近隣の進学校に行ったが、大学受験に失敗、浪人生活を経験したことから、運命が変わり始める。

同級生300人のうち、浪人したのは僕含め、たったの2人。完璧な挫折者でした。広島に行って予備校に入り、狭い狭い下宿で浪人生活が始まったんです。なぜもっと真剣に勉強しなかったんだろう、とひたすら後悔の日々。勉強に身が入らなかったのは、家からの通学時間が1時間半と長すぎたからだ。なぜあんな片田舎に生まれたんだろう、と落ち込むばかりだったので、精神安定剤代わりに本を読み始めたんです。

一番影響を受けたのが、松本順という人が書いた『負けてなるものか』(マネジメント社)という本で、今でも持っています。副題が「人生を逆転する発想」で、松下幸之助は病弱だったから他人に仕事を任せることができた、本田宗一郎は学歴がなかったから人の二倍も三倍も頑張れた等々、起業家の人生を題材に、マイナスだと思えたことが、後にどれだけプラスになるかを説いた内容で、何度も読み返しました。この本のおかげで何とか浪人生活を乗り切れた感じです。

本当は京都大学が第一志望だったのですが、そこまで成績が伸びず、九州大学工学部に進みました。『負けてなるものか』の影響で、起業家の本を読み始めました。

当時の住友銀行会長、磯田一郎について書かれた『向こう傷を恐れるな』(上之郷利昭、知的生き方文庫)という本があるんです。大銀行のトップについての本ですが、今だったらとんでもない題名ですよね。今のマスコミも悪いと思う。地位のある人がちょっとバイタリティ溢れる発言をしたくらいで、すぐに叩く。それでは、人間が委縮してしまう。

大学時代から、城山三郎や司馬遼太郎の著作など、志が高くて実行力もある珠玉のリーダーをテーマにした本ばかりを読んできたので、今の大企業の経営者なんて守りに入っている人ばかりで物足りない、と思えるんです。

時には広い世界を見たくて、よく海外に出かけました。バックパッカーです。行く先々で、日本の製品はこんなにも海外で普及し愛されているんだ、と驚きました。ソニーもホンダもすごいなと。その時の体験が、「リベンジしてやる。日本製品を再び普及させてやる」という感じで、今の事業に結びついているのかもしれません。

工学部では化学専攻でした。化学が好きなわけでもなくて、父親の影響でした。山口県は大手の化学メーカーが多い。大学は県外に行ってもいいけど、就職は地元で、というのが父親の厳命だったのです。でも、入った後、後悔しました。「僕がやりたいのは化学じゃない。経営なんだ」と。いよいよ4年になって就職先を考えたら、やはりホンダかソニーに行きたい。当然、県外での勤務となります。父親に相談すると、「絶対許さない。どうしても、というなら、親子の縁を切ってから行け」と。漫画「巨人の星」の星一徹のようなキャラクターですから、言い出したら梃子でも動きません。

30代と21世紀を目前にして
初めて大きな自己決断をする

徳重氏が妥協案として選んだのがNTTだった。当時は情報通信分野が花形だったから、「面白い仕事ができるかもしれない」という消去法で選んだのだ。徳重氏はやると決めたら、とことんまでやる性質だ。情報通信に関する本を山ほど買い込んで勉強し、NTTの人事あてに自発的に手紙まで書いて自分をアピールした。

結果はNOでした。僕は当時からサラリーマンになりたくなかった。父親から起業は止められていたので、起業家になる夢は封印していたのですが、とにかく、おべんちゃらなサラリーマンではなくて、グローバルで活躍できるバリバリのビジネスマンになりたかったんです。

ところが、NTTとしては、そういう奴は暑苦しくて、お呼びじゃなかったのでしょう。急いで就職活動をやり直し、まだ募集していた金融に的を絞って活動したら、6社から内定をもらい、そのうち最も僕のことを買ってくれた住友海上火災保険に入社を決めました。本社が大阪で、山口に支店もありましたから、父も納得してくれました。1994年のことです。

結局、同社には4年間在籍しました。業務部という会社全体を統括するようなエリート部署に配属され、仕事はそれなりに楽しく、がむしゃらに働く僕を上司も評価してくれたんですが、保守的で内向き、給料がいいから働いているというような人が多くて、本当は起業家志望の自分がなぜここで働いているんだっけ?と、最後の1年くらいは悩んでしまったのです。

最後に僕の背中を押してくれたのは、これまでの人生、自分で物事を決めていないじゃないか、という後悔の念でした。大学で化学を選んだのも、結果的に住友海上に入ったのも、結局は父の意向じゃないか、と。ちょうど30歳になる手前で、しかも21世紀が始まる直前でもありました。僕もいい歳になったし、しかも時代の節目だから、このあたりで、自分の責任で新たな進路を切り開いてみるべきではないかと。

退職してすぐに実家の父に報告に行きました。僕が何か言うと、いつもはその倍くらい返してくる父が2分くらい黙っていました。よく見ると身体が震えていたんです。「もうお前とは絶縁だ。今日限り縁を切る」。隣で母親が泣いていました。まさに修羅場です。

海外に出て初めてわかった
日本および日本人のすばらしさ

住友海上を辞める時に次の進路は決めていた。ベンチャーの聖地、シリコンバレーへの留学であるが、早速、挫折した。シリコンバレーの目と鼻の先にある第一志望のスタンフォードも、同じく第二志望のカリフォルニア大学バークレー校も、落ちてしまったのだ。仕方なく選んだのは、遠く離れたアリゾナ州のサンダーバード国際経営大学院。慣れない英語に苦しめられ、とにかく2年間の悪戦苦闘の末、同大学院を修了すると、ようやく念願のシリコンバレーで意気揚々と働き始めた。日本に親会社があるインキュベーション会社の社長という役職。シリコンバレーからの撤退話を聞きつけた徳重氏が「給料は自分で稼ぐから」と頼み込んで収まったポジションだ。ここでまた転機が訪れる。

とにかくベンチャー企業だけに興味があったので、日本で働いている時は日経新聞を読んでも、そのトピックスしか読みませんでした。政治も経済も大企業の経営も、ほとんど興味がないから、すぐ読み終わってしまったんです。社会性がなかったんですね。ベンチャーを志す人は山師であり、自分もその山師の1人になりたい、と本気で思っていました。

それがシリコンバレーで働くようになって大きく変わりました。きっかけは日本からの訪問者です。経産省のお役人や自治体の首長クラスの人が来ては、30歳そこそこの僕に、「どうやって産業をつくればいいでしょうか」と尋ねるんです。ベンチャーをやるというのは、自分にとっての個人的なチャレンジに過ぎず、新しい産業を生むというような社会変革とは関係ないと思い込んでいた自分にとって、衝撃的な言葉でした。
それからいろいろな本を読み漁るうち、わかったんです。ベンチャーが新しい産業を興す種となり得る。生まれて大きく成長することによって雇用と税収を生み出す。それが地域を豊かにし、最終的には国を牽引していくのだ、と。

それがきっかけで、日本の歴史も本格的に勉強しました。30歳過ぎてです。理系でしたし、受験も地理で受けたので、日本史はほとんど勉強していなかったのです。日本が嫌いで海外に出ていく日本人は今も昔も多い。僕もその1人だったでしょう。でも日本史を勉強してみて、自分の無知を悟りました。日本はすばらしい。日本ばかりか、あれほど嫌いだった生まれ故郷の山口県が大好きになったほどです。明治維新の立役者を多く輩出しているからです。

その代表的人物が高杉晋作です。長州藩が形成挽回のため京都に出兵するものの、蛤御門の変で敗れ、朝敵となります。幕府による長州征伐が迫るなか、ほとんどの者が幕府に恭順しようとしましたが、高杉は違いました。諸隊を率いて、功山寺で決起するんです。まさにクレイジーです。彼は上海に行き、中国人が欧米列強の奴隷のような状態に置かれているのを目の当たりにしていたから、日本を同じ状態にしてはいけない、と骨身にしみてわかっていました。

それには時勢についていけない頑迷固陋の幕府を倒し自分たちで新しい国をつくるべきだと信じていたのです。結局、高杉の目論見は成功し、6千人の奇兵隊が10万人の幕府軍を破った。彼がいなかったら、明治維新は成功しなかったかもしれません。

テラモーターズを立ち上げ、日本発のメガベンチャーを目指す、と言うと、周りから「すごいね」「偉いね」と言われるんです。しかし、高杉がやったことに比べれば、僕の活動なんてたかが知れています。今の常識ではなく、昔の偉い日本人をベンチマークして物事を考える。そうすれば、越えられそうもない目の前の壁だって、なだらかな丘に見えます。
歴史という時間軸と、グローバルという距離軸、それに日本が好きだという気持ち、この3つがあるから、僕はここまでやって来られたと思うし、これからも大切にします。

TEXT=荻野進介 PHOTO=鈴木慶子

プロフィール

徳重徹
テラモーターズ株式会社 代表取締役社長
1970年山口県生まれ。
九州大学工学部を卒業後、住友海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険株式会社)にて、商品企画等の仕事に従事。退社後、米Thunderbird国際経営大学院にてMBAを取得、シリコンバレーのインキュベーション企業の代表として IT・技術ベンチャーのハンズオン支援を実行。事業の立上げ、企業再生に実績残す。帰国後、2010年4月にTerra Motors株式会社を設立。設立2年で国内シェアNo.1を獲得し、リーディングカンパニーとなる。経済産業省「新たな成長型企業の創出に向けた意見交換会」メンバー。一般社団法人日本輸入モーターサイクル協会電動バイク部会理事。