2014年度研究プロジェクト

南壮一郎アウェーからのスタートを好む
抜きんでたチャレンジ精神

静岡県内有数の進学校に通っていた南氏は、周囲同様、進路として東大などの一流大学への進学を目指していたが、途中、その矛先をアメリカへと変えている。きっかけは、ある雑誌で「世界の大学ランキング」という特集記事を目にしたこと。驚くことに、そのランキングで上位に並ぶのはアメリカの大学名ばかり……持ち前のチャレンジ精神がうずいたのである。「考え直せ」と断固反対する高校の教師陣を尻目に、南氏は自らの力だけで準備し、結果、アメリカの名門校であるタフツ大学に進学した。

ずっとスポーツをやってきたからかもしれませんが、尋常ではないくらいの負けず嫌いなんですよ。どうせ大学へ進学するなら、一番の大学に行ってみたい。ランキングを見たら、東大が40位くらいと書かれていたので、それならばアメリカの大学にいけば、少なくとも自分の高校では一番だと考えました。今考えると大変幼稚な発想ですね(笑)。父親にアメリカの大学に進学したいと早速相談したら「自分のことは自分で決めなさい」と応援してくれました。ところが、担任をはじめ高校中の先生たちは大反対。「そんな夢みたいなことを言っていないで、受験勉強をしろ」「留学したければ、東大に入ってから留学すればいいじゃないか」と。四面楚歌とはこういう状況をいうのだと思いました。

でも結局、僕の気持ちはまったく揺るぎませんでした。誰も何もしてくれないし、学校にも情報があるわけではないので、自分で行動するしかありませんでした。1994年で、インターネットがなかったので、アメリカの大学受験に関する本で調べたり、父親の友人たちにいろいろと教えてもらったりしました。アメリカの大学へヒアリングのために深夜に国際電話をかけまくった後は、電話代を見た親がびっくりしていました。留学雑誌で見つけた東京にあるアメリカの大学進学塾に、青春18切符を活用して、静岡から毎週末往復12時間かけて通ったりもしました。高校3年の夏休みには、単身で渡米して、スタンフォード大学とUCバークレー校のキャンパスツアーに参加しました。目の前に広がる夢のような世界を見て「自分は間違っていなかった。ここに来たい」と強く思ったことをまるで昨日のように覚えています。さまざまなドラマがありましたが、最終的にはタフツ大学への入学が決まり、自分だけの手作り受験を無事終えることができました。僕が当時得たものはアメリカの大学への進学切符だけではなく、自らが考え、自らが行動することによって、自らが望む機会を勝ち取ることができるという大きな成功体験でした。

ただ、いざ大学へ入学すると、また「違う星に来た」状態が続きました(笑)。いくら帰国子女だといっても、自分の英語力なんて、日本に帰国した中学1年生レベルのままで止まっているわけです。考え方も、行動パターンも、すっかり日本人になっていましたし、子どもの頃と違って、人種差別なんていうものも肌身にしみてわかります。アメリカのエリート層の中では、アジア人は完全なるマイノリティ…… 。どうしたら、この環境において、認めてもらえるようになるのだろう。どうしたら、この「星」のど真ん中を堂々と歩けるようになるのだろう。自分の中で導いた答えはシンプルなものでした。勉強にもスポーツにも全力投球し、自分の能力がどこまでこの環境で通用するか思いっ切り試してみる――。

大学でもまた、サッカーに支えられました。推薦入学の猛者に囲まれながら、練習に励んで1軍のレギュラーの座を勝ち取り、大学評議会にも立候補し、キャンパス内の選挙活動を経て学生評議委員にも当選。次第に、僕は新しい星の住人たちの輪の“真ん中”に歓迎されるようになりました。

思い返すと、いつも自分はアウェーからのスタートなんですよ。でも実は、どこかでそれを好んでいるというか、その状態から這い上がるドラマを求めている気がします。「どれだけ面白い章をどれだけ多く創れるのか」を常に意識しながら、人生という本を書いているところがある。だから、思い切った挑戦をいとわないんでしょうね。

大学では数量経済学部と国際関係学部の2つの学部を卒業した後、南氏はモルガン・スタンレー東京支社の投資銀行部に入社。直観的に「面白そうだ」と飛び込んだ世界だったが、実際にこの時代、外資系投資銀行は勢いに乗り始めていたから、南氏は十分刺激的な環境で働くことができた。

社会人スタートが投資銀行業界でよかったと思っています。M&Aアドバイザリー業務に携わっていたんですけれど、当時の日本では、外資系投資銀行がようやく勢いが出てきたタイミングでした。業界も会社も、ものすごい成長環境にあり、まさにスタートアップそのものでした。仕事は内容的にも体力的にもかなりハードでしたが、20代から30代の先輩たちとともに、重要な案件やありとあらゆる経営者に関われた経験は、間違いなく僕の社会人としての土台をつくってくれました。高い志を持った職場の先輩たちは優秀で、主体性を持った働き方というものを間近に見ることもできた。社会人として、自分が目指すべき高い基準値が自然と確立されたのです。

その後、僕はモルガン・スタンレーを離れ、あるM&A案件のお客様であった香港・PCCWグループに誘われ、彼らの日本支社の立ち上げに参画し、日本やアジア、アメリカのIT企業への投資業務を担当してきました。ただ1年もするとITバブルが弾け、驚くほどに投資案件が枯渇してしまったのです。

ちなみに、僕は、20代はキャリアにおける修業期間だと捉えていたので、自分に負荷がかかるような成長環境に身を置かない限り、自分に対して納得ができない。何もない状況だからこそ努力をして前進するし、本当に挑戦ができない環境であるならば、環境そのものを変えてしまえばいいと考えていました。当時、学生時代にスポーツの仕事をしてみたいと考えていたことを思い出し、結果的には、金融の世界を離れ、スポーツの世界へ飛び込みました。それが僕の生き方なんだ、という根拠のない自信とともに。

2015年05月29日