2014年度研究プロジェクト

出雲充あきらめなければ、
手伝ってくれる人は必ず現れる

起業したその年にミドリムシの屋外大量培養に成功。「大量培養さえクリアすれば、大きな可能性を持つミドリムシのこと。あとは黙っていても引く手あまただろう」と胸を躍らせた。だが、事業化しようとしていた矢先、起業時に出資を受けていたライブドアで不祥事が起き、それまで商談が進んでいた会社から交渉を絶たれた。それからは約500社に営業をかけたが、断られ続けたという。転機は、ライブドア事件から約2年半が過ぎた2008年5月。1年かけて交渉してきた伊藤忠商事からの出資が決まったのをきっかけに新日石(現・JX日鋼日石エネルギー)、全日空といった日本を代表する企業との提携が相次いだことで経営が軌道にのり、2012年には東証マザーズ上場を果たした。

「会社がどん底の状況にあったときに、なぜやめようと思わなかったのか」とよく聞かれます。「もうダメだ」と思ったことは何度もありますが、やめるにやめられなかったんですよ。ミドリムシに問題があって世の中からそっぽを向かれるなら、仕方ないかもしれません。でも、ミドリムシには何の非もないのに、僕らがミドリムシを見捨てていいのかと思ったんです。

それに、ここであきらめたら、長年のミドリムシ研究の成果を僕たちに託してくれた先生方や、会社の仲間たちに合わせる顔がありません。とてもひとり暮らしはできないような給料で地道に研究を続け、かつては夢物語だったミドリムシの屋外大量培養を実現してくれた鈴木や、もうひとりの創業メンバーでマーケティング担当の福本拓元にも申し訳なさすぎると思いました。やはり何としてもミドリムシを世に出し、みんなで喜びを分かち合いたい。その気持ちだけで踏ん張りました。

海のものとも山のものともつかないミドリムシの会社に、伊藤忠商事が出資をしてくれたのは奇跡だと私は思っていますが、奇跡が起きたのは、仲間や応援してくれる人たちの励ましがあったからです。美談でも何でもなく事実として、私ひとりでは何もできませんでした。起業だってしようと思っていたわけではありません。ミドリムシに出会って、その可能性を世の中に知ってもらいたいと思ったけれど、私は鈴木のように優秀な研究者でもなく、福本のような営業力もなく、できることといえば経営しかなかったのです。

経営者として、僕は自分がリーダーに向いていないことをよくわかっていました。中学、高校をともに過ごした親友が自然と人をひきつけ、周りを巻き込んで物事を実行していく人物で、すごいなあと思う反面、彼のようにはなれないとコンプレックスを抱いていました。経営をする立場になって、唯一のよりどころになったのは、大学時代に尊敬していた先輩の言葉。私が所属していた学生ビジネスコンテストを主催するサークルのリーダーで、周囲の信頼の大変厚い人でした。その彼が、「出雲くんが将来、何かをやりたくて、ほかの人に助けてもらいたいなら、まずは自分が誰かを手伝ってみるといいよ。そうすれば、自然とみんなが助けてくれるから」と。つまり、リーダーとは必ずしも人をぐいぐい引っ張っていく人ではなく、ほかの人を応援して支える人だということです。私の理想のリーダー像は、常に彼の教えの中にあります。

ただ、私が十分に人を支えられているかというとやはり自信はなく、むしろ支えられてここまで来られました。なぜたくさんの人たちが支えてくれたのかというと、私自身をではなく、「ミドリムシが地球を救う」というアイデアを手助けするためにそれぞれの役割を果たしてくれたのだと思います。

最近は少しずつミドリムシが世の中に知られるようになってきました。「ミドリムシなんて」と言われ続けた時期を思うと、本当にありがたいし、うれしく思います。だって、今だから言えますが、やはり先が見えないというのは不安じゃないですか。生活できなかったらどうしよう、って。でも、あきらめなければ、手伝ってくれる人は現れる。社会に対する信頼値は、以前と比べて格段に高くなりました。日本の社会は失敗に対して寛容とは言えないけれど、少なくとも死ぬことはない。そんな国にいて、文句があるからやらないという選択肢を今の私はまったく排除しています。ミドリムシの力はまだまだこんなものではありませんから、私たちがやるべきこと、やりたいことは次から次へと出てきますが、絶対に実現できると思っています。

2015年05月15日