2014年度研究プロジェクト

社会をリードする人材の育成は、社会が支える
とはいえ、社会を引っ張っていく存在になりたいという人材が十分に育ってこなかったことの責任は、なにも超進学校の側だけにあるわけではない。いや、むしろ日本社会全体のなかにこそあるということもできるように思う。

やや専門的な話になるが、そもそも「社会」というのは、17世紀に生み出され、使われるようになっていった西ヨーロッパの観念だといわれている(竹沢尚一郎『社会とは何か――システムからプロセスへ』中公新書,2010年)。王政の崩壊とともに誕生した民主制国家の正当化のために、また国家間の競争や戦争が激化するなかでどのように国力を増大させるかという課題に取り組むために、そして都市化と産業化がもたらした貧困や失業などの問題に対処するために、「社会」という認識が必要だったから、というのがその経緯である。他方で日本人は、「社会」という言葉を、明治時代に学問の文脈で輸入されたことによってはじめて知ることになる。その後、「社会」という言葉は一部有識者のあいだで用いられるようになったが、いまだ一般的な思考回路の基準になっているのは、「社会」ではなく、自分と関わり合いがある(今後、関わるであろう)人びとを意味する「世間」の方だといわれている(阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書,1995年)。すなわち、これまで日本では、「社会」という視点で物事を考えるという姿勢が育ってこなかった。だとすれば、超進学校が生徒たちの社会牽引意欲を伸ばしていないとしても仕方がないところがあるだろう。日本で社会リーダーがほとんど生まれていないのは、歴史の産物という側面がある。

そのうえで1つ言及しておこう。超進学校では、すでに生徒たちの可能性を広げるための仕掛けづくりが始まっている。開成では、各界で活躍するOB数名を呼び、先輩たち自身の言葉で、中高時代の意義、大学受験、そして現在の仕事の内容などについてじっくりと語ってもらう「ようこそ先輩」ならびに「進路についてあれこれ考える会」が毎年企画されている。また、灘では「土曜講座」という名前で、OBや趣味を持つ先生たちの手によって、政治や経済、科学技術、医療など幅広いテーマの講義が提供されている。いずれも実施されるようになってから十数年経つが、生徒たちの関心はかなり高く、多くの者が積極的に参加しているそうだ。

この取り組みによって超進学校の社会リーダー育成力が高まる可能性もあるだろう。世界に噴出する様々な問題や課題を知ることで、その解決を目指し、新しい価値を創ろうとする者が増えるかもしれないからだ。ただ他方で、同時に私たち自身も変わっていく必要があるのではなかろうか。日本に「社会」という捉え方が浸透し、自分とその周りの人びとだけでなく、見知らぬ他人の生活や幸福にも関心を持てるようにならない限り、そして「社会」をリードする人材を育てようという機運を高めない限り、大きなうねりは生まれない。「社会リーダー」の育成は、社会で取り組む。考えてみれば、ごく自然なことである。

本コラムは、「『社会リーダー』になるための条件」というタイトルをつける作業から始まった。しかし、「『社会リーダー』になるための条件」以上にいま考えるべきは、「『社会リーダー』を育てるための条件」なのかもしれない。社会リーダーを育てるために、私たち自身がどのようにかまえ、どのような環境を整えるべきか。こうした問題を提起しながら、連載を締めくくりたいと思う。

<完>

2015年05月19日