慧眼との対話 『社会リーダー』をめぐる論点柳沢幸雄氏 開成中学校・高等学校 校長

1871(明治4)年に創立された開成中学校・高等学校は東京大学入学者数33年連続トップの実績をもつ私学男子校御三家の筆頭格。知性・自由・質実剛健を重んじている同校では学校行事や部活動の運営もすべて生徒に任せるなど、生徒の自主性を育んでいる。その校長である柳沢幸雄氏は教育に関する書籍を多数上梓するなど、社会に向けての情報発信も積極的に行っている。社会リーダーに必要とされる資質や育成方法を語ってもらった。

リーダーとは、言葉によって人を動かすことができる人

― 我々は「社会リーダー」という言葉に「新たな社会価値を創造し、人々の未来を豊かにすることを、自らの使命と自覚している人」という意味を託しています。柳沢校長が考える「リーダー」とはどのような人物でしょうか。

柳沢 今おっしゃったその定義で一つ違和感があるんです。「自らの使命と自覚している人」、こんなに肩肘張らなくてもいいじゃないか、と。つまり自分が持っている力を社会の中でちゃんと生かしていく、ということだけでいいんじゃないかなと。もっともっと気楽にやってもいいのではないかという気がするんです。

私の定義でリーダーっていうのは何かといったら「言葉によって人を動かすことができる人」。どんな小さな集団であってもチームのメンバーに取り組むことの目的と目指すべきゴールを言葉で説明して、みんなが「それいいね、じゃあやろうよ」、というような状況になれば、それはもう明らかなリーダーであると。

この能力は日本社会においては非常に重要だと思うんです。日本の社会では古来より、「明確にものを言わない」ということが美徳とされているからです。いわゆる「腹芸」「以心伝心」「沈黙は金」というやつです。

大抵の日本人は会話するとき「相手はきっと自分の気持ちをわかってくれているんだろうな」という前提に立っているから、大事なことでも言いづらいことは明言したがりません。

確かに「みなまで言わなくてもわかってくれる」という世界はとても居心地がいいんですよ。わかり合える、強い絆で結ばれている、とても居心地のいい集団ですよね。ところが、この「美徳」が通用するのは世界70数億人の中の1億2000万人だけ、世界人口の中でわずか2%以下、つまり日本人の間だけなんです。

いや、もしかすると1億2000万人の中でも通用していないかもしれない。自分ひとりが通じていると思っているだけ、お互いわかっているような気になっているだけなのかもしれない。同じ日本人でも世代や社会的背景が違えば伝わっていないと考える方が自然だと思うな。

だからそこから脱却するためにも言葉でちゃんと人に説明できる、人を引っぱることができるということが重要なのだということを、私は日本の場合は特に強く言った方がいいと思う。言葉に出さないとわからない。

最も重要なのは、論理である

― 言葉での説明能力、確かに重要ですね。言葉で伝えるときに、ではどういったスキルが必要なのでしょうか。

柳沢 万国共通の、人類にとって共通のお互いを理解するための手段というのは、恋愛感情を除けば、論理だけだと思うんです。なぜ、何のためにそれをやるのかという論理をきちんと組み立てることができれば、その集団が3人のグループでも、1000人の学校でも、数十万人の大企業でも、あるいは数億人の国民でも言葉で集団を引っ張っていくことができる。このように物事を言葉を使って論理的に組み立て、集団を了解させられる人。それがリーダーだと思います。

具体的な例を挙げると、戦後の首相の中で小泉純一郎はリーダーとしての資質に富んでいたと思う。つまり彼の政治手法は「ワン・フレーズ・ポリティクス」と揶揄されることもありましたが、ワン・フレーズ、ひとつの言葉で民衆をぱっと集め、魅了し、自分の望む方向に引っ張っていった。彼ほど言葉の使い方のうまい首相はいない。

グローバル化というと、英語力が必要という話になりがちですが、私は言語は論理を運ぶ客車だと思っている。つまり論理をどの言葉に乗せるかはどうでもいい。別に日本語であっても、英語であっても、中国語であってもかまわない。ただ、お互いが了解可能になるために共通の言葉が必要になるというだけの話。でも肝心の論理が不明確だと、相手を了解させることはできない。だから英語を勉強する前にロジカル・シンキングとロジカル・スピーキングを身につけることが必要だと思う。

― その論理の力を身につけるためには、どうすればいいのでしょうか。

柳沢 論理とは形式美。形式があるわけ。それを日本の学校教育の中で明確に意識してやっているのは、幾何学。だから開成では、中学校で幾何学をやる。仮定と結論を明示して、証明、終了という一連の決まったパターンを繰り返すことにより、論理的に考え、話す力は鍛えられます。

ボストンの学校ではこの論理系をきちんとしたパターンで教えることにとても力を入れている。小学校4年生から大学卒業まで、各科目で必ず半年に1回ほどプロジェクトと称する学習があります。生徒一人ひとりにテーマを与えて、そのテーマについて半年間研究して成果を報告させるという授業です。

そのテーマに関する本を読んで、内容を咀嚼して、カードを作る。次に関連する項目がまとまるようにカードを並べ替える。そしてカードのまとまり毎にタイトルをつける。このタイトルが報告書の目次の章の題になるわけです。このようにして目次を作ることが、そのテーマに関して自分の論理の構成することになる。論理の骨格が決まったら、内容を肉付けしていく。これが論理の基本的な構築法で、繰り返し行うことによって論理的に考え、伝えることができるようになり、受け手側も理解し、了解できるようになるんです。

つまり、共通の言語以前に最も重要なのは論理の構築法。お互いに了解可能な共通の手段であって、アメリカはそれを国民に共有できるようにしている。私は、これこそが最も重要だと思うんです。

だから私がハーバードや東大の大学院で教えていたとき、学生たちに博論、修論や卒論のための研究を始める前にまず3~4ヶ月間かけて学位論文の目次を書かせていました。そうすることで、全体の構造や自分が取り組む研究のゴールが見え、行き当たりばったりではない論理的な研究になる。

実は、新しいものを生み出すときは常にこの構造なんです。例えば革新的な商品が世にでるとき、最初に企画した人が必ずいる。それで会社の上層部を説得して、これがこうなってこうなるとこれだけ売れるから、作りましょうという話になるわけ。まずゴールを見通して、そのゴールに対してきちんと説明できる構造をちゃんと用意する。もちろんそこには仮説があって、その仮説を一つひとつ検証していく。そういう意味では大学の研究も新製品の開発も全く同じで、それこそがリーダーが持っていなければいけない基本的な素養なんです。

― その取り組むべき新しいこと・目標を見つけるためにはどうすればいいのでしょうか。

柳沢 それは各個人がやって楽しいと思うことでしょうね。さっき「社会的使命」という言葉に私は違和感を感じるといったでしょう? 別に社会的使命なんてなくたっていい。自分がやって楽しいと思うことをすればいいものは必ず出ると私は信じ込んでいる。

それはなぜかというと、嫌いなもので努力はできないから。例えばイチローは野球が好きだから常人では不可能な努力ができ、その結果、前人未到の記録を残せるわけでしょう。だからそれはもう、みんな昔から知っているじゃない。「好きこそものの上手なれ」でね、夢中になってやっているから、できるようになっちゃう。でも好きなものは各人、各様、全員違うから、そこをちゃんと好きなことを見つけだせるように支えてあげる教育が、一番重要。

― 開成では在学期間中に自分の好きなことに出会うための教育が組み込まれているのですね。

柳沢 そうです。開成の教育の中では、教室での授業と課外活動の両者を重要視しています。教室の授業というのはいわば基礎的な知識だから、これは好き・嫌いにかかわらずやってもらわなければ困る。だけど課外活動は自分の好きなことをやれと。だから開成には70近い部があるんです。その中から自分で好きなものを選んで、自分の個性を発揮すればいいでしょう。自分の好きなことにはまっていくことに楽しみを覚えると、今度はちゃんと自分はこれをやりたいですと主張することができるようになる。それができるようになったら、開成の教育の基本的な部分は完了。

― 「どこの大学に行きたい」ではなく、「何がやりたい」かを生徒に見つけさせるということなんですね。

柳沢 その通りです。この学校では、東大へ行けとは誰も言わない。なのに東大へ行く生徒が多いのは、先輩との交流を通じて自分も将来こうなりたい、そのためには東大へ行きたいと、自分の将来像をイメージするからです。自分の希望を表現できるようにするのがわれわれの能動的な教育で、そこから先は生徒一人一人の個性、希望に合わせた受け身で対応しています。

生徒が海外受験をしたいと申し出てきたので、ちゃんとアドバイスできるような組織を作るし、数学オリンピックの大会に出たいけど試験が重なって困っているという生徒には出来る限り便宜を図ります。

こんな感じで、やりたいことを見つけたらその後どうするかは生徒次第。みんなが自分の居場所、自分の個性を表現することの心地よさを知っているから、少々変わっているやつでも全然違和感なく受け入れられる。

みんな自分の個性を表現することにためらいがないので、勉強でも部活でも何でも全部自主的にやるんです。逆に先生があれやれこれやれと指示しても生徒は聞かない(笑)。

褒めて育てる

― 日本には自主的に何かを見つけて取り組むという人材は育っていないように思われますが。

柳沢 少ないでしょうね。それは日本では子どもがそういうふうに育てられてないから。例えば、子どもが何か悪さをしたとする。親や先生は「これをやっちゃだめでしょう」と叱る。すると子どもはもう絶対にそれをやらなくなる。

でも親たちはそれをしてはいけないと命令するだけなので、子どもはそれはやらないけれど、次に何をやるべきかわからない。子どもは一生懸命考え、何か新しいことをやる。でもまた同じように怒られると、子どもは途方に暮れますよね。これを繰り返していくと最終的に怒られないための最善の方法は何もしないことだと学ぶ。こうやって指示・命令されたことしかできない人間が量産されるわけです。

こういう人間と反対の人間を育成するためには、これと反対のことをすればいい。つまり、怒るんじゃなくて褒めればいいわけです。その原点は「這えば立て、立てば歩めの親心」、あの至福の時です。動物界の中でも常時二足歩行が完璧にできるのは人間だけ。人間の赤ちゃんは生まれてからわずか2年で二足歩行ができるようになっちゃう。それは親が全面的に褒めるから。

実をいうと赤ちゃんの這い這いなんてあんな危ないことはない。部屋の中には口に入れちゃまずいものがたくさんあるし、何かに頭をぶつけたり、高いところから落ちたりといろいろなリスクがあるから。這い這いができるようになると今度はヨチヨチ歩き。これも危ないよね。特に公園や外を歩けるようになると、道路に飛び出しちゃうかもしれない。親は目が離せなくなっちゃう。

だけど親は「だめ」、とは絶対に言わない。なぜかというと、親には子どもが生まれたばかりの記憶がまだ明確に残っているから。それと比較してみると、子どもの成長を実感できる。最初は首もすわらなかったよね、それがだんだんこうやって動けるようになる、それは嬉しい。だから、子どもの過去と比較して成長をした点を無条件に褒めることができる。そうやって親が喜色満面でいるから、子どもはやっていいんだなと思う。だからあれだけ難しい二足歩行がみんなできるようになる。

子どもは親が笑顔になることを一生懸命する。なぜかというと、その時期は子どもは無能力者だから、親が命の保証をしてくれないと死んじゃうわけ。だから、親が喜ぶことは必ずやる。子どものどのような行動に対して親が喜ぶか、何を褒めるかによって、子どもは行動を決定すると同時に、価値観も学ぶ。親が望ましいと思っていることを、子どもができたときに喜んであげると、子どもは自然とそっちへ移動してくる。だから、褒めることが大事なんです。

誰かとの比較ではなく、垂直比較が重要

ところがだんだん子どもが年齢を重ねていくと、親は子どもの現時点と過去と比較するという感覚を失っちゃって、みんな隣の子どもと比較し始める。それの典型が偏差値だよね。偏差値というのは同一年齢層の横の比較だから。だけど必要なのは、その子どもにとっての縦の比較なんです。

人は成長の仕方が個人によって全然違うので、他の子どもと比べることに意味はない。「隣の子はできるけど、うちの子にはできない」ということを認識さえしていればいいんです。

必要なのは、その子ども自身の縦の比較、つまり垂直比較で、その子の過去と現在を比較してみると、必ず褒めることができる点が多々あるはず。以前はできなかったけど、今はできるようになっていることを、具体的な事柄を通じて褒めてあげればいいんです。そうすることによって子どもは自信をつけて勝手に伸びていく。

実は、この構造は子どもを育てるときだけではなく、社会人でもまったく同じです。会社の企画会議で「こいつの言うことはおもしろい。ちょっとやらせみようか」と任せてみる。それでうまくいったら「よくやった」と褒める。そうすると自信をもって、もっと大きなことにチャレンジするようになる。それは子どもが二足歩行ができるようになる過程とまったく同じ構造です。

つまり、人が成長するためには先輩や上司など身近に褒めてくれる人が必要なわけですが、この他人を褒めることができる人は、非常に自己肯定感が強い、自信を持っている人だといえます。だから自分の言葉で思っていることを人に伝えることができる。こういう人がリーダーたりえる人だといえます。そして褒められて育った人は自分の部下や後輩にも同じように接するので、成長の連鎖が起こり、その組織はどんどん強くなります。

逆に「そんな突拍子もないこと言うんじゃない」「そんなことやってもしょうがない」と頭から否定したり、うまくいかなかったときに「何やってんだ」と叱ると、誰も何も発言しなくなるし、挑戦もしなくなります。

― 日本の会社では失敗したら降格されたり、左遷させられるから誰もリスクを取ってまで新しいことに挑戦しなくなるということはよく言われています。

柳沢 そうです。日本の会社の多くは減点主義だからね。何か新しいことを言ったりしたりすること自体が大きなリスクになる。何もしなければマイナスにはならない。だからみんなものを言わなくなるし挑戦しなくなる。

逆にアメリカは加点主義の社会だから、ものを言わないと自分の存在がゼロのままで終わってしまう。だから積極的に発言する。

この減点主義こそが、今の日本社会を覆っている閉塞感の根本的な原因であり、リーダーがなかなか生まれてこない要因だと私は思っているんです。

40歳になったらフリーエージェント宣言を

― いつから日本の社会はそうなってしまったのでしょうか。

柳沢 戦後、日本の多くの会社が確立した、終身雇用と年功序列がセットになった人事システムのせいだと思います。

終身雇用・年功序列のシステムでは大きな失敗をしなければ自動的に昇進し、定年まで働けることが保証されている。さらに減点主義なので、リスクをおかさず、黙っておとなしくしている方がいいわけです。

この点はまさにリーダー論に関わる所なのだけど、「結果責任を負う」ということがリーダーの定義のひとつ。結果責任を負うということと年功序列とはまったく正反対の考え方なの。もちろん終身雇用と年功序列も否定はしないけど、その一方で、その安定重視のシステムから外れたキャリアを構築できるシステムもあってもいいと思うんです。

だから私は「サラリーマンは40代になったらフリーエージェント宣言をしましょう」と提唱しています。

結果責任を重視して、すごい成果を出したら年齢に関係なく上のポジションに昇進でき、高い給料がもらえる。その逆もまたしかり。こういうシステムも選べる社会であるべきでしょう。

そうすれば新しいことにチャレンジする人が増えて社会はもう少し流動化するし、いろいろな変化やイノベーションも起きるだろうと思うんです。結果責任を重視する社会はつまり加点主義の社会だからね。

自分が誰かから管理されていて自分の行動に自由度がないと思えば、その範囲から逸脱しようという思考にはなりません。それは会社組織においても、学校の教室でも同じ。
でもその反対に思考も行動も自分の意志に委ねられていると感じれば、自分で考え、行動するようになる。開成では教育方法はすべて教員に任されている。教員に自由があると、自主的に行動できる生徒が育ってくる。教員が管理されていると、管理されることの方が心地よいと感じる若者が育つと思うんです。

だから、管理せず、自由にやらせて、失敗しても怒らず、成功すれば褒めてあげる。こういう環境にすればリーダーは自然と育つと思いますよ。

TEXT=山下久猛 PHOTO=鈴木慶子

プロフィール

柳沢幸雄(やなぎさわ ゆきお)
開成中学校・高等学校 校長
1947年生まれ。開成中学・高等学校出身。71年、東京大学工学部化学工学科を卒業。日本ユニバック株式会社(現・日本ユニシス株式会社)に入社。81年、東京大学大学院工学系研究科化学工学専攻博士課程修了。その後、ハーバード大学大学院准教授・併任教授、東京大学大学院教授を経て2011年から現職。東京大学名誉教授。工学博士。