ブランクからのキャリア再開発をどう支える?離職期間を経て、手探りしながら、独立系ファイナンシャルプランナーとして活躍する道を見出す

海外への転勤帯同、子育て優先の時期を過ごしながらも現在、自分に強みをつけて、ファイナンシャルプランナーとして活躍する工藤清美さん。身を置く場所や状況を冷静に判断しながら、一歩ずつ歩を進めてきた道のりには、いくつものターニングポイントがありました。事務所の法人化に向けて邁進する工藤さんに、これまでの歩みを伺いました。

仕事の誘いを断った後悔が、再就業の原動力になった

ーー離職期間を経てどのようにお仕事を再開されたのでしょうか

夫の転勤に帯同して海外で生活後、1998年に帰国しました。その時、以前働いていた出版社の先輩から、「ライターを探している会社があるので働いてみないか」と声を掛けてもらいました。また仕事ができると思うと、すごく嬉しかったのですが、まだ子どもが生後半年と1歳半という状況。結局、自分で"無理だ"と決めつけてお断りしてしまいました。

子どもを授かってみると、子育ては思いのほか大変で、これまでやってきたどの仕事よりも大変だなというのが当時の心情でした。自分の手で育てたいという思いも強くて、"今の私の仕事は子育てだ"と自分に言い聞かせていました。でも、お誘いを断った後、とても後悔しました。保育園を調べてみるなど、働く術を見つける手立てはあったのではないかと思ったからです。そこでもう一度出版社の人に連絡をしたところ、在宅でできる編集の仕事をいただけることになり、子どもを横で遊ばせながらパソコンを打つ状態で、少しずつ仕事を始めました。

ーー外で働きだしたタイミングはいつですか

一番下の子どもが幼稚園に入り、少し手が空く時間ができたのを機に、折り込みチラシで入ってきた求人に応募したのが最初です。いつかはまた組織で働きたいという思いは持っていたので、子育てに重心を置いている時も、地元の男女共同参画センターが行う講座に出席してみたり、ある時は子育て系のNPOの立ち上げの手伝いをしてみたりと、アンテナを張るようにしていました。外とつながり、関わることを続けていたおかげで、履歴書を書いて応募することへの抵抗感は薄かったように思います。それに、これらの活動に関わったおかげで、当時はまったく知らなかったExcelも使えるようになりました。

見つけたのは近所にある出版社でのパートの仕事です。担当していたのは、地域の話題を取材して書く仕事で、出社頻度の少ない在宅ミックスの働き方ができるのは、当時の生活スタイルにもマッチしており、最初は純粋に、働けること自体に喜びを感じていました。そのうち、仕事に慣れ始めて、特集を一人で担当するようになると、出社回数が増え始め、会社側からも、いずれは社員にというような雰囲気は伝わってきました。その一方で私自身は、ライターの仕事を広げたような形で、ダイナミックな仕事にも関われる場所に自分をもう一度置いてみたい、チャレンジしたいという希望が出てきました。帰国直後の仕事の誘いを断ったことへの後悔もあったのだと思います。やりたいと思ったことには手を挙げてみようと、大手出版社などの求人に片っ端から応募してみました。でも、結果は惨敗でした。

手を挙げたからこそ分かった、「強みを作る」必要

ーー挫折からはどのように立ち直られたのですか

これだけ落ちるということは、自分の力量が相手の求める域にまで到達していないのだなと気づかされました。惨敗のおかげで、これからライターとしてキャリアを積むにしても、やはり、自分の強みを作る必要性を感じるようになり、もともと経済学部出身で金融や経済に興味がありましたから、ここを強みにしようと思い立ちました。結婚前に勤めていた出版社の時には、経済系の取材もよく担当していたものの、分からない部分もたくさんあったので、現場で学ぼうと思い、派遣会社を介して銀行でフルタイムの派遣社員として働く道を選びました。

配属されたのはディーリングルームで、会社は丸の内。活気があるし、これまでのご近所だけの閉じたところから世界が広がって、働くのはとても楽しかったです。はじめは、与えられた業務を回すので手いっぱいだったけれども、一カ月もすると慣れ始めて、そうすると、もっとできることはないかなと、また考えるようになりました。もっと何か自分のスキルを高められる方法はないかと考えて、ファイナンシャルプランナー(以下FP)の資格を取ることを思い立ち、受験しました。その後、女性FPの会合などに積極的に参加したところ、個人向けのお金にまつわる情報冊子の作成の依頼がありました。ボランティアでしたが、この経験が、自分の軸を見つけるきっかけになりました。それまでライターを軸にと考えていたのですが、自分の望むダイナミックな仕事に関わるには、金融の専門知識を強みにした方が、可能性が広がると思ったのです。専門家として文章を書けば、ライターの経験も活かせます。

ーーその後、大学院に進まれましたが、ここは大ジャンプだったのではないでしょうか

そうですね、専門家として書くという道を思い描きはじめたころに、派遣先の銀行で男性社員から大学院に通っているという話を聞いたことがきっかけです。何も失うものがなかったので、とても軽い気持ちで、それこそ「駄目もと」だと思って大学院を目指しました。大学院入学後は、会社員、学生、母親業、主婦業の1人4役をこなし、十分な睡眠もとれない状況でした。でも、大学院時代の2年間は今までの人生の中で一番充実していた時間だったかもしれません。本当に挑戦してよかったと思っています。

試行錯誤しながら、本当にやりたい仕事を探した

ーー卒業後は派遣を辞められFPとして独立されたと伺いましたが、仕事は順調でしたか

大学院で頑張れたということが自分自身に対する自信にもつながり、それが独立への原動力ともなりました。でも、最初はどうしていいのか分からず、試行錯誤しました、ゼミの先生の紹介で、週に2日ほど、大学院の中で少し研究のお手伝いをしていました。その仕事をしながら、本当にやりたい仕事を探しました。いろいろな会に参加してみたり、セミナー講師の枠など、FPの募集に応募したりしながら、少しずつお仕事を頂きました。一つひとつの仕事を丁寧にこなし、今に至っています。

ーーお子さまの手の離れ具合に合わせてご自身も成長されてきた工藤さんですが、今後の目標を教えてください

私がFPの資格を取ったころは、どこかの保険会社に所属するような方がほとんどでした。でも、海外ではすでに、個人がFPに相談する土壌ができていて、お金の専門家としてFPは頼られる存在になっています。ここ数年は毎年米国に視察に行き、米国で活躍するFPと交流させて頂き、いつも刺激を受けています。米国では金融商品の売買によるコミッション(手数料)ではなく、お客様からフィー(相談料)を頂き、お客様のライフプランを実現するためのアドバイザーとして、FP業が急速に広がってきています。金融商品に紐づいたファイナンシャル相談ではなく、独立したかたちのファイナンシャルプランニングの提供は日本でも必要なことですが、まだその仕組みがありません。今後、欧米型の仕組みができるように、力を注いでいきたいと思っています。大切な資産についてお話を伺う立場ですから、安心感をご提供するためにも、法人格の取得も視野にいれながら、事務所を運営していきたいと思っています。

プロフィール

工藤清美氏
1969年生まれ。大学卒業後、株式会社日本総合研究所にて銀行系システム開発に従事。その後、94年に出版社にて経済系、旅行系の取材執筆を担当。94年に結婚、95年から夫の転勤に伴いシンガポールに転居し、98年に帰国。早稲田大学大学院ファイナンス研究科にて修士、MBAを取得。研究室での助手を経て2012年に独立。ファイナンスMBA、CFP (認定ファイナンシャルプランナー)、1級FP技能士、放送大学非常勤講師。