歴史探訪 近現代日本の「社会リーダーたち」まとめ:改革期は時代がリーダーをつくり 調整期はリーダーが時代をつくる

全4 期を概観したうえで改革期、調整期に分ける

われわれは約150 年にわたる日本の近現代を4 期に分け、それぞれの期を代表する2 人のリーダー、計8 人の前半生を見てきた(Chart1「本編で取り上げてきた8 人の社会リーダーたち」参照)。

幕末から明治初期にあたる第Ⅰ期で取り上げたのは、初代文部大臣をつとめた森有礼、慶應義塾の創設者・福沢諭吉という、いずれも教育関係者であった。
日露戦争から先の敗戦までを区切りとした第Ⅱ 期では、事業家・鮎川義介と、社会運動家・賀川豊彦に、敗戦後から高度成長期に至る第Ⅲ期は、流通王・中内功と、ミスター通産官僚・佐橋滋にスポットライトをあてた。
現在に連なる第Ⅳ期を飾ったのは、稲盛和夫、孫正義という現役のカリスマ経営者であった。

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全4 期をまとめると以下のようになる。
欧米流の「近代」国家の建設を模索した時期が第Ⅰ期、つくり上げた国家の諸制度のチューニングに腐心しつつ、国際環境を見誤り、あえなく挫折したのが第Ⅱ期、失敗から立ち上がり、新憲法のもと、今度は欧米流の豊かな「民主」国家を目指したのが第Ⅲ期、目標を半ば達成してしまい、新たな課題に直面しながらも、何とか前進しつつあるのが、現在を含む第Ⅳ期である。

一方、これら4 期をもっと別の視点から分類することもできる。
シンプルに、改革期と調整期に分けるとしたら、第Ⅰ期と第Ⅲ期が前者、第Ⅱ期と第Ⅳ期が後者である。
改革期のリーダーが森・福沢・中内・佐橋、調整期のリーダーは鮎川・賀川・稲盛・孫ということになる。
改革期は当然のことながら、リーダーが多い。それに対して調整期は少なくなる。各期の人選において、実感したことだ。

改革期のリーダーは、社会課題を書物や実体験から知る

改革期と調整期では何が違うのか。具体的には、社会リーダーをリーダーたらしめる"苗床"はどう違ってくるのか。格好の指標となるのは、彼らが影響を受けたという書物だ。社会リーダーになるには、社会課題に気づくことと、それを我が事としてとらえ、解決に向けて行動すること、その2つが重要であるとわれわれは考える(Chart2「社会リーダーの必要条件と特性」参照)。

改革期において社会課題は明確である。時代がどちらに向かっているか、鋭敏なアンテナを持っていれば、すぐにそれを察知できるからだ。
森はその課題を、幕府が禁書としていた林子平の『海国兵談』によって把握した。ロシアによる日本侵略の可能性とその防御策がそこには書かれていた。それを通読した森は、海外の諸事情を学ぶことと、洋学の必要性に目覚めたのである。
福沢は蘭学塾の優等生であり、のちに英語も自家薬籠中のものとしたから、それこそ、欧米で出版された本を山ほど読み、日本が解決すべき社会課題を同時代の誰よりも適確に把握していた。

同じ改革期のリーダーとしては、中内・佐橋がいる。しかし、この2人には、森や福沢のように書物という形で社会課題が簡単に示されたわけではなかった。後で述べるが、特に中内の場合、生きるか死ぬかの過酷な従軍体験が「餓えとは無縁の豊かな社会をつくる」という志に結びついたのである。

調整期のリーダーは、書物で己の器をつくる

一方、調整期のリーダーが影響を受けた書物はどうか。
鮎川の場合はアメリカの鉄鋼王カーネギーによる『エンパイア・オブ・ビジネス(実業帝国)』であり、そこにはこうあった。

〈君たちを使っているボスが感心できなかったら、
一時の損は覚悟のうえでさっさと見切りをつけ去って行け〉

賀川は病気静養中、社会に見捨てられた弱者への伝道活動に生涯を捧げたジョン・ウェスレーの書物に入れ込んだ。あえて言うと、のちに賀川が神戸のスラムに住み込んで貧しい人たちへの援助と伝道活動に邁進したのは、このウェスレーの思想と行動を模倣したのだ。
稲盛の場合は、結核の病床で手にした『生命の實相』という宗教書であった。災難は弱い心に降りかかるから、いつも強い心でいるべし、という処世術的内容である。そこから稲盛は、目の前の困難から決して逃げずに立ち向かうという生き方を体得した。
そして、孫の愛読書は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。ご存じ、何ごとかをなさんと思う男子なら誰でも夢中で読み耽(ふけ)る、今なお人気の国民的ベストセラーである。

こうして見ると、彼ら4人が影響を受けた書物は、今でいう自己啓発書なのだ。改革期のリーダーとは違って、彼ら調整期のリーダーは、自分はいかに生くべきかを、言葉を変えれば、他の人とは違うリーダーとしての生き方を書物から学んだのだ。「最初に社会問題ありき」ではなく、リーダーとしての器、つまり、ある社会課題を我が事として把握し、その解決に向かって粘り強く進んでいける力を先に培ったようである。

まとめよう。
改革期のリーダーには外から課題が降ってくる。つまり、時代がリーダーをつくる。一方、調整期のリーダーは課題を見出し、その解決に向けて行動できる力をまず己の内部で磨く。結果、リーダーが時代をつくっていく。こんな違いが見て取れる。

「社会課題に気づき、我が事ととらえる」―― 8人はいかにしてリーダーとなったか

次に、各期に共通した"リーダーをつくり上げる要素"を見ていこう。
繰り返しになるが、われわれは、ある人が社会リーダーたり得るには、まず「社会課題に気づく」ことと、その「社会課題を『我が事』としてとらえる」ことが必要だと考える。
さらに、それぞれを可能にするのが、2つの思考特性である。つまり、社会課題に気づくためには、「社会を見つめる」こと、「(社会の)よりよい形を思い描く」ことが重要であり、社会課題を我が事としてとらえるには、「人と違うことを恐れない」ことと、「自己を肯定する」ことが必要だと考えた。
Chart3を見ていただきたい。

これは8人の社会リーダーをリーダーたらしめたものを、大きく3つ(①学びの場・素材、②家族・親族、③艱難辛苦(かんなんしんく))に分類し、さらに細分化したうえで、それぞれが、われわれが社会リーダーの必要条件と思考特性として挙げた項目のどれに関連するかを説明した図である。黒丸(●)が深い関連を表している。われわれはその他に、社会リーダーとしての行動特性も抽出したが、リーダーの前半生を見るのだったら、思考特性までで十分と考えた。

友人・同級生の影響は少なく大きく効いているのが欧米体験

こうして見ると、時代区分による違いというよりは、むしろ共通項が目立つ。
教育熱心な家に生まれ、父や兄弟の影響を色濃く受け、私塾も含めた学校に通い、しかるべき師に出会う。既に書いたように、若い頃、人生を変える書物にも出合っている。興味深いことに、友人や同級生からの影響は8人とも顕著ではなかった。若い頃に、病や孤独、差別といった人生の辛酸をなめさせられた人も多い。それは大きな糧ともなった。

特筆すべきは、留学・修業を含め、海外に渡ったことが大いに効いていることだ。アジアで従軍した中内と佐橋も、日本という国を外から見たわけだから、海外経験を積んだともいえる。社会リーダーになるのには、海外体験が大きな鍵を握っているようである。
そこで目指すべき理想を発見して帰国し、賛同者を増やしていく。森・賀川・鮎川がまさにその図式にあてはまる。
外を見るという意味では、キリスト教の影響もある。鮎川は小学生の時に宣教師に接している。社会運動家・賀川は敬虔なクリスチャンであった。キリスト教なかりせば、社会運動家・賀川はなかった。キリスト教の持つ社会改革志向の強さを改めて実感する。

学びの場としての従軍体験

ここで先のChart3をもう一度ご覧いただきたい。
8人をリーダーたらしめた項目のうち、異色といえるのが、中内・佐橋が経験した従軍体験である。特に、ひどい飢えとも戦いながら、戦死率73パーセントという文字通りの生き地獄から生還した中内にとって、従軍体験は後半生において極めて大きな意味を持っていた。中学時代の友人が「中内君は凡庸でまったく目立たない生徒だったから、世に出た時はびっくりした。過酷な戦争体験が彼を生んだのでしょう」と述懐しているほどだ。

従軍体験がなぜ大きな学びとなるのか。
軍隊は社会の縮図である。中に入ると、出自、学歴を超えた、いろいろな人たちと混ざり合う生活を送る。年上や位の高い者には絶対服従だ。いい意味でも悪い意味でも、「社会を知り、見つめる」絶好の機会になったはずだ。
軍隊は過酷だ。生死は常に隣り合わせである。佐橋は遺書を日々書き足しては肌身離さず持っていた。中内の場合、飢えに苦しめられた。それはまことに理不尽なものであった。中内はのちに、戦争の根本原因を流通網の不備に見た。不備があったから、限られた資源を取り合う国家同士の凄惨な争いが起こったと考えた。中内自身がのちに語っているように、そういった社会矛盾、すなわち社会課題を身を以て体験したことが、「よりよい形を思い描」かせ、中内自身による、のちの流通革命の推進につながったのである。

日本の軍隊は異質なものを許さず、同質化を強いる組織だったから、「社会課題を『我が事』ととらえる」のに必須の「人と違うことを恐れない」力を培ったとは言い難いが、戦闘に生き残り祖国の土を無事に踏んだ両名は、運悪く死んでしまった仲間に対する「申し訳ない」という気持ちの裏返しで、「(生き残った)自己を肯定する」気持ちを持っていたに違いない。

大正生まれになぜリーダーが多いのか ――「大正生れ」という歌が表すその理由

今回、われわれは、先述した4期ごとに、その期にふさわしい社会リーダーを決める人選作業を行った。そのプロセスにおいて、第二次世界大戦後に社会リーダーとして活躍する大正生まれの人が非常に多いことに気づいた。大正は15年しかなくて、しかもその多くが戦争に赴き命を落としているにもかかわらず、なのである。
その代表格が中内であり、佐橋である。しかも、両名がそうであるように、押しなべて従軍体験を持っている。たとえば、ソニー創業者の盛田昭夫であり、宅急便をつくったヤマト運輸の小倉昌男である。リーダーの幅を広げると、戦後日本を代表する政治家、田中角栄、中曽根康弘の2人が従軍体験のある大正生まれである。
これはどういうことだろうか。
1980年代に、財界人の間で、「大正生れ」(小林朗:作詞/大野正雄:作曲)という歌が流行ったことがあった(梶原一明著『ビジネスマンの社長学』天山文庫)。作詞を担当した小林朗自身がまさに大正生まれで、こんな歌詞だ。

一、大正生れの俺達は 明治の親父に育てられ
忠君愛国そのままに お国の為に働いて 
みんなのために死んでゆきゃ 日本男児の本懐と
覚悟を決めていた なあお前

二、大正生れの青春は すべて戦(いくさ)のただ中で 
戦い毎(ごと)の尖兵(せんぺい)は みな大正の俺達だ 
終戦迎えたその時は 西に東に駆け回り 
苦しかったぞ なあお前

三、大正生れの俺達にゃ 再建日本の大仕事 
政治、経済、教育と ただがむしゃらに幾十年
泣きも笑いも出つくして 
やっと振り向きゃ乱れ足
まだまだやらなきゃ なあお前

四、大正生れの俺達は 幾つになってもよい男
子供も今ではパパになり 可愛い孫も育ってる
それでもまだまだ若造だ 
やらねばならぬことがある
休んじゃならぬぞ なあお前
しっかりやろうぜ なあお前

大正生まれ世代をリーダーにした資質と経験、そして場

この歌に、大正生まれがリーダーとして活躍した要因が説明されている。
当時は大正デモクラシーという運動が象徴するように、軍国主義一辺倒の時代ではなかった。第一次世界大戦に連合国の一員として参加し、勝利した日本は国際連盟の常任理事国の一つとなり、国際的地位も上がっていた。明治期に、それこそ森がつくり上げた教育制度が機能し始め、福沢の著作で学び、幅広い視野を身に付けた優秀な人材が社会に輩出されるようになっていた。こわい明治の親父に鍛えられたのだ。

昭和に入ると、日本は対中・対米戦争という大きな修羅場に直面する。明治憲法下では徴兵制があったから、男子は全員満20歳で徴兵検査を受けさせられ、甲種合格者は2年間、戦場に送られた。兵役義務の年齢は17 歳から40歳であり、多くの大正生まれが該当した。敗色が濃くなった1943(昭和18)年からは、在学徴集猶予制度が廃止され、学徒出陣も始まる。さらに多くの大正生まれが戦場に赴かざるを得なくなったのだ。
が、奮闘空しく、全世界で死者6600万人という未曽有の大戦争が終わりを告げた。日本は310万人という同朋の犠牲を払い、戦争に敗れた。

終戦時1945(昭和20)年時点で、大正元年生まれは数えで33歳、大正15年生まれは19歳である。それより上の世代は戦死したり、GHQ(連合国総司令部)により公職追放を余儀なくされたりした。まさに大正生まれが新生日本の土台をつくる社会リーダーとなったのは当然のことであった。
彼らには自分は運よく生き残ったという自覚があった。戦場で常に死と隣り合わせだったことが個としての人間を強くした。目の前には政治、経済、教育と、さまざまな課題が山積みだった。

まとめると、大正生まれ世代には、①若い頃の充実した教育環境、②戦争という修羅場体験(戦死した仲間を通じて国や社会に対する思いを培い、過酷な戦場を体験したことによって精神的ならびに肉体的強靭さを獲得した)、③戦後、彼らの目の前に広がったリーダーとして活躍できる原初的"原っぱ"のような場、の3つがそろっていた。資質と経験と場と。彼らは新生日本の社会リーダーになるべく、運命づけられていた世代だったのだ。

団塊世代になぜリーダーが少ないのか
今後に備え、育成メカニズムの整備を

この大正生まれ世代と対照的なのが、戦後すぐに生まれた団塊世代である。彼らは数が多いわりに、今回、これはと思う人物を社会リーダーとして抽出することができなかった。これは、彼らが現役となった1970年代以降が、われわれがいう調整期に当たり、時代がリーダーを必要としなかったからだろう。前に述べたように、調整期は改革期ほど、リーダーを必要としない時代なのだ。

しかも、彼らが社会人として働き始めた時期は高度成長期で、経済成長というエンジンが高らかに廻っていた。一つのシステムが完成していたから、それを潤滑に運用したり、拡大生産したりするマネジャーは必要としたが、別の可能性を考えるリーダーは必要なかったのだ。
もっとも、団塊世代にも社会リーダーの素質を持った人がいなかったわけではない。全共闘世代とも呼ばれる彼らの中には、学生時代から左翼運動に身を投じる者が多数いた。マルクス主義を奉じ、革命によって「よりよい社会の実現」を目指した人たちだ。しかも、それは世界的傾向でもあり、フランスでは学生運動が政権を追いつめ、アメリカでは若者の叛乱が公民権獲得運動にまで発展した。
がしかし、日本の場合は生産的な何かを生み出すことはなく、多くの学生は長い髪を切って就職していき(「いちご白書をもう一度」)、「運動」のやり過ぎで逮捕歴のあった筋金入りは経歴不問のマスコミ現場に入るか、塾講師などの自営業となるか、猛勉強して弁護士になるか、といった道を選んだ。

いま振り返ると、社会変革に対する彼らの意識は相当強かったものの、「資本主義は悪であり、労働者階級がそれを打ち倒すのが歴史の必然だ」というイデオロギーが邪魔し、「社会課題に気づく」うえで不可欠な、真摯に「社会を見つめる」視線も、多様な選択肢を考慮しつつ「よりよい形を思い描く」能力も、どちらも曇ってしまっていたのだ。

現在は調整期だとすると、リーダーの数が少ないのは必然ともいえる。が、調整期でもリーダーは必要だし、いつ訪れるかもしれない改革期に向けて、リーダー輩出のメカニズムを用意しておくことは重要だ。それには、社会課題を我が事としてとらえることができる"リーダーとしての器"を若いうちから磨いておくことだ。そのためには、伝記に代表される良質の自己啓発書に触れさせること、留学などの形で世界を広く体感させ、それまでとはまったく違う場に身をおかせること、若者をして「自分もこうなりたい」と思わせる魅力的な先達との接触を増やすことを怠ってはなるまい。