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インド Vol.01新人研修費用補償「ボンド」は法的に是か非か

「ボンド」をご存じだろうか。インドでは、特にエンジニアの採用において、研修期間終了後すぐに離職した場合に研修費用の一部の返還を求めることがある。これが法的に是か非か。近年の裁判の事例などを中心に、ボンドをめぐる動きについて解説する。

IT企業大手の研修は、入社後6カ月続くこともある

インドにおいても、日本と同様に新卒者に対して研修を実施するケースがある。特に、インドの主要産業の1つであるIT企業においては、IIT(インド工科大学)などトップ校の卒業生以外の新人エンジニアに対して、徹底的に研修を行う企業がある。

あ るインド系IT企業大手の事例では、入社と同時に宿泊施設付きの研修施設に6カ月間収容され、そこで朝から晩まで、基本的なビジネスマナーだけでなくコー ディング、ネットワークに関する知識、そして仕事やプロジェクトの進め方などをみっちり学ぶことが課せられている。ある日学んだことは翌日必ず確認の試験 が実施され、順位が公表される。最終的な研修の成果を把握するための試験もあり、数回の試験に合格して晴れて社員として働くことができる。

上 記の研修は大手企業だからこそ見られることであり、労働者にとってこのような研修を受ける機会は貴重である。また、インド系IT企業の大手は、多くのイン ド人にとって働きたい企業であるし、これらの企業で働いた経験は他社でも通用する。また、家族や友人にも自慢できる。2012年中盤以降のインド国内の景 気後退により状況は変わっているが、大手企業で勤務経験のある人材は、景気後退以前は引く手あまたで、高い給与が提示されて転職するというケースが多く見 られた。

「ボンド」は研修後の退職を防ぐ企業の防衛策

一 方、企業にとって見れば、新卒のエンジニアを採用し、研修を受けさせて能力が向上したが、研修が終わったとたんに退職されては、研修として投資したコスト が無駄になってしまう。研修期間が終わったとたんに多くの労働者が退職するのであれば、企業には研修をするインセンティブはなく、人材育成はうまく機能し ないことになる。

このような状況を打開するために、研修期間終了後すぐに離職した場合に研修費用の一部の返還を求めるなど、労働者に一定 の費用の補償義務を課す内容の書面に署名させることがある。インドではこの書面を「ボンド」(あるいはサービス・ボンド)と呼び、特に新人には、研修プロ グラムが終了してから数年以内に退職した場合には、雇用主が被ったであろう損害に対する補償金として、一定の金額を支払う旨を誓約させる事例が見受けられ る。

ボンドは、エンジニアに限らずインドでは多くの職種で採用されているようである。筆者がインドで何を基準に就職先を選ぶかといった点 をヒアリングした際に出てきたポイントの1つが、ボンドの有無とボンドの期間である。筆者がヒアリングをした限りでは、ボンドの期間として長くても2年な ら許容できるという人が多く、なかには5年のボンドのもとで働いた経験のある人もいた。

職業選択の自由はインドも同じ。論点は「合理性」

イ ンドでは、ボンドが存在していることは周知のことであるが、その有効性については、法的な観点から議論の余地がある。インドの憲法やその下の基本法である 契約法は、人々の基本的な権利として職業選択の自由を認めており、個人の職業選択の自由を制限することはできない。一方で、雇用主が現実に被った損害を請 求することは認められるし、その損害額をあらかじめ合意しておくこと自体は可能である。ただし、損害額などが企業の利益保護の必要性を逸脱して不合理であ り、職業選択の自由を実質的に制限するに至っている場合には、ボンドは無効とされる。合理性については、企業の側で主張・立証することが求められる。

こ のように、ボンドを取るにあたっては慎重な配慮を要する。労働者がボンドの履行を請求された場合でも、訴訟の場面では支払義務はないと裁判所が判断する場 面も出てくる。それにもかかわらず、争う余地のある内容のボンドを取っている企業も少なからず存在するのが実態だろう。

もちろん、日本で も契約期間の途中で労働者が転職した場合に、労働者が一定額の違約金を支払うといった約定のボンドは認められない可能性が高い。労働基準法第16条には 「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」と定められており、入社時に労働者の契約違反につき 損害賠償額を予定することは、労働基準法第16条に違反する(ただし、企業が海外の留学費用を従業員に貸与し、その後一定期間勤務すればその返還債務を免 除するなど、その実質が労働者の自由意思を不当に拘束し勤務の継続を強要するものではなく、企業が留学費用を貸し付け、帰国後一定期間勤務しない場合にそ の費用の返還を求めるものである場合は必ずしも該当するとは限らない)。

インド市場が外資に開放された1991年以降、外資系企業に就職 してトレーニングを受ける従業員が急増し、これに伴いボンドの有効性が訴訟の場において争われる例も増加した。上記のように、裁判では、ボンドの有効性を 判断するにあたっては、損害額などが企業の利益保護の観点から合理的といえるかどうかを検討する傾向にあり、ボンドに基づく違約金支払請求を認める判例も 現れている。たとえば、2011年、プログラマーとして採用され6カ月間のトレーニング期間を満了した労働者が、「採用から2年以内に退職した場合には違 約金20万インドルピーなどを支払う」旨のボンドがあるにもかかわらず1年あまりで退職し、企業側が違約金全額の支払いを求めて提訴した事案において、イ ンド高等裁判所は、勤務期間などを考慮し違約金額を減額したうえで、10万インドルピーの支払いを命じた。

このように、そもそも研修が実施され、その研修が技術やスキルなどを従業員に身に付けさせるための特別なプログラムであり、ボンドで設定された期間がある程度合理的であれば、裁判所としても研修費用の一部を補償することを認めている。

個人のスキル形成のために、一定の費用の補償をすべきという考え方も

裁判所が研修費用の一部補償を認める背景として、TMI総合法律事務所の平野正弥弁護士とレイ・ヴィクラム・ナト氏(外国法事務弁護士(インド法)登録手続 中)は次のように見ている。「インドでは2000年代頃から、ITやITES分野におけるBPO(ビジネスプロセスアウトソーシング)を担う企業が増える など、研修を実施して従業員の業務遂行能力を高める企業が増えてきた。そうした企業では、多くのITエンジニアなどに対してより専門に特化した研修が実施 されるようになった。その研修には企業にとって相当な金額がかかっていることもあり、ボンドの内容が合理的であれば、何らの損失も補償させないのは正義で はないと裁判所は見るようになった」

もちろん正義の観点も重要であるが、それだけではなく、個人のスキル形成につながるのであれば一定程 度の費用の補償をすべきだという考えも背景にあるだろう。インドでは毎年100万人を超える学生がエンジニア学科を卒業しているが、そのうち企業ですぐに 働けるポテンシャルがあるのは1割にとどまるという。その学生たちは主にインド系のIT企業大手に就職するため、彼らをいかに一人前に育て、インド経済を 牽引するまでにするかが国としての大きな課題である。そのためにはスキル形成が重要であり、企業の取り組みに対して一定程度法的にも許容することは当然の ことでもある。日本の感覚ではまったく奇異といわざるをえないが、流動性の高い労働市場では、ボンドのような仕組みがある程度必要とされるのは避けられな いと言えよう。

戸田淳仁(研究員)