頂点からの視座伊東豊雄氏(建築家)

「いかに優しい気持ちで建築ができるか」。今、それを自分に問うている

"建築界のノーベル賞"と称されるプリツカー建築賞のほか、ヴェネチア・ビエンナーレ(*1)の金獅子賞を2度獲得するなど、伊東豊雄氏は世界的な建築家としてその名を馳せる。名建築を数々つくり上げてきた根源にあるのは、人や社会と真っ直ぐに向き合う姿勢だ。キャリアを重ねた今も、伊東氏は建築、そして建築家の在りようを真摯に問い続けている。

Ito Toyo_1941年生まれ。建築家の菊竹清訓氏に師事し、1971年に独立。プリツカー建築賞をはじめ、国内外の受賞歴多数。後進建築家を多く輩出する教育者としても高い評価を得る。近著は『「建築」で日本を変える」(集英社新書)。

― 長い建築家人生を歩んでこられたなか、時代と共に、伊東さんご自身のスタンスや視界にも、きっと変化がおありになったと思います。

30歳のときに独立したのですが、時代としては、第一次オイルショックの影響を受け、それまで右肩上がりだった経済成長が急激に止まった頃。ほとんど仕事がなかったのです。ヒマだから、仲間と酒を飲みながら建築議論ばかりしていました。「お前の建築はなってない」と批判し合ったり、理想の建築はこうだとか、それはもう熱く。若い頃は、総じて社会に対する批評精神が非常に強かったですね。
でも一方で、人々の役に立ち、社会に認められるものでなければ、建築は成立し得ないということにも気づいていた。そこに寄り添わずして批評だけで建築するというのは、矛盾があるわけです。思えば、その矛盾を解消したいと考え続けてきた道のりでした。最近はね、それは「いかに優しい気持ちで建築ができるか」ということだと思っているんですよ。

― 伊東さんは公共建築も多く手がけられていらっしゃいます。官公庁との仕事には、それこそ矛盾や不自由さもあるのではないかと......。

そうですね(笑)。「もっとこうすれば使う人たちは楽しいのに、喜ぶのに」と提案しても、管理側の発想で、いろいろなことが切り捨てられていくフラストレーションは常にあります。でも、正面から壁にぶつかっても突破できないので、それを乗り越えるかたちで何かできるはずだと、考えるようにしてきました。

大切にしているのは「一緒につくる」姿勢

― なかでも、仙台市につくられた複合文化施設「せんだいメディアテーク」(*2)は非常に印象深い建物です。

建築をやってきてよかったと、心底思えた仕事です。図書館やギャラリーなどを有した複合施設ですが、「どこで何をやっていてもいい」という発想で広場のような空間にしました。通常の公共施設にはないつくりだったので、途中、利用者団体とは衝突もあったのですが、完成してみると、驚くほど地域住民の方々が受け入れてくださった。まるで10年前からその建物があったかのように馴染み、自由に使ってくれている。大胆な提案でも人々から共感されるものであれば、建築は社会に開かれた存在になり得る、その手応えを得たのです。
重要なのは、「共感できるものか」「独りよがりになっていないか」を問い、常に確認していくこと。だから僕は、関係者たちと"一緒につくる"スタンスを非常に大切にしています。「これで大丈夫かな?」などと問いかけながらね。最近では、利用者に相談する機会もできるだけ設けるようにしているんです。

― そのスタンスは、現在、伊東さんが注力されている震災復興支援にも感じます。

家もまちも失った人たちは、悲しみのどん底にあるわけですが、そこに触れていて僕が感じるのは、むしろ、何かから吹っ切れたかのような人間の強さ。その前においては、「この建築、かっこいいでしょう」などと言っていられない。建築家という冠を捨てて、あらためて建築を考えてみたいと思ったのです。
その1つの表れが、仮設住宅の集落につくる集会所「みんなの家」です。いわば"共同のリビングルーム"のようなもので、そこに行けば人との繋がりを感じられる、コミュニテイの始原になるような場。建物としてはある意味凡庸だけれど、とにかく居心地のよさというものを追求しての建築です。ほかの建築家有志や、被災した人たちと協力して、東北では既に15棟建てています。
活動を通じて、自分でも一皮むけたという感覚がありますね。人や社会と通じ合っていくことの大切さは、通常の建築においても同じだと思えるようになった。優しい気持ちになったともいえるし、そう、何か自由になれた気がするんですよ。

建築の"枠"から解き放たれる

― それは、何から自由になったのでしょう?

建築という土俵でしょうか。ここから外れるとまずいとか、逆にここを超えてやれとか、自分で勝手につくり上げていた"枠"みたいなもの。それを意識しなくなったということです。
たとえば、昨今の建築は省エネが大きなテーマになっていますが、消費エネルギーを何%カットするかを前提にするのではなく、「この場所、風が通って気持ちいいよね」というような、動物的な感覚から設計に入っていけるようになった。
動物的な感覚を大切にする建築も、今や著しく発達したITなどによって、かつてないレベルで実現できるようになったし、工学はあとからついてくればいいと。技術ありきだった20世紀の近代建築は、もう世界全体で変わっていかなくてはいけない時代に来ていると思います。

― 伊東さんが開いていらっしゃる私塾でも、やはりそういう教えを?

もちろん、思いや考えを共有したいという気持ちはあります。でもそれ以上に、建築塾の活勣では、僕自身が学んでいるのです。というのも、塾生には一般の方々が多く、建築関係者は3分の1いるかどうか。子ども建築塾もやっていますしね。特に小学校5年生くらいまでの子どもと話していると、とんでもなく面白い発想や素直さに驚かされる。大人でも子どもでも、自然に、自分たちの生活のなかで建築を捉えている人たちと話すほうが、自分の建築を考えるベースになっている気がします。結局、僕という人間を育て、元気にしてくれているのは、人や社会と通じ合う建築。そういう意味では、間違いなく生きがいだといえますね。

1)イタリアで開催される現代美術の国際美術展覧会。「美術のオリンピック」とも呼ばれる
2)宮城県仙台市教育委員会が管轄する複合文化施設。市民図書館をはじめ、美術や映像文化の活動拠点として、あらゆる人々が自由に活用できる

Text=内田丘子(TANK) Photo=橋本裕貴

After Interview

枯れ木立に囲まれたガラス張リの建物。かなリ大きいはずだが、内側の空間にほとんど壁がなくずっと奥まで見通せるためか、圧迫感はない。10年ほど前、秋の仙台で見たのが伊東氏の手になる「せんだいメディアテーク」だった。カフエで一休みしたのだが、空間のあちらこちらに置かれた椅子やテーブルで、誰もが思い思いに自分の時間を過ごしているのが見える。みんな、ここが好きなのだなと思った。
もちろん、建築上の野心的なチャレンジがいくつも施された建物でもある。だが、それらのチャレンジを評価されることよリ、できあがった建物が、人々を招き入れ、惹きつける存在になれるかどうかのほうが重要であると、伊東氏自身が知っていた。それこそが、この建物が震災を超えて、まちの人々の拠り所になった所以だろう。
復興支援の「みんなの家」プロジェクトでは、ますます「人々の日常に溶け込む場」としての建物が志向されている。「建築科の学生たちが、コンセプトだけで図面を引き、コンセプトだけで偉い先生に評価されるのは不幸なこと」と、そのときだけ語気を強めた伊東氏。現場での対話を積み重ねてきた氏ならではの言葉、しかと受け止めたい。

聞き手=石原直子(本誌編集長)