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2 労働組合の歴史
戦前までの状況
労働組合の歴史は、18世紀半ばのイギリス産業革命に始まったといわれる。産業革命によって、手工業が機械制工業に取って代わられたのと同時に、それまで熟練労働者が多数を占めていた工場は未熟練労働者であふれるようになった。労働者の賃金が下げられる反面、資本家の利益は大きくなり、労働者のフラストレーションは高まった。18世紀末には、熟練労働者間だけでなく、未熟練労働者間の団結も強まり、労働組合が結成されるようになった。しかし、こうした動きをおそれた資本家と政府は、労働組合の結成とストライキを禁止する団結禁止法(1799年および1800年)を制定し、違反者を投獄などに処し、徹底的に弾圧した。イギリスでの労働組合運動は隣国フランスにも広がったが、フランスでは1791年ル・シャプリエ法により団結が禁止された。労働運動の弾圧は、イギリスで1824年に団結禁止法が撤廃されるまで続いたが、同法撤廃と同時に労働組合の数は劇的に増加し、労働運動の主体となった。
労働者が階級全体の共通の利益を意識し、全階級的闘争に立上っていくなかから労働者階級独自の政治行動も発展していった。1836年、ロンドンの労働者と手工業者から始まったチャーチスト運動は、イギリスの政治体制の徹底的な民主化を求める「人民憲章(ピープルズ・チャーター)」を掲げた大衆的政治運動となった。この運動のなかで労働者政党の原型となる、約300の支部と50,000人余りの会員を誇る「全国チャーチスト協会」が結成され、331万人以上の署名が集められた。さらに、1864年、ヨーロッパ各国の労働組合、協同組合、共済組合、労働者教育団体などが参加して国際労働者協会(のちの第1インターナショナル)がロンドンで創立され、これを中心に労働運動の国際連帯が強まり、また各国での運動の発展が促進され、強化された。
このような運動を通して、労働組合は政治力を強めていった。第1インターナショナルは1876年に解散したが、1889年7月14日のフランス革命の100年記念日に、第2インターナショナルがパリで結成された。マルクス主義の色彩の強い第2インターナショナルは、創立大会で社会主義政党を結成に関する決議を採択し、8時間労働日、賃上げ、現物支給制反対などを掲げたゼネストを計画し、5月1日を国際労働運動の示威の日と決めた。これがメーデーである。
一方、アメリカでも19世紀初頭に地域レベルで熟練労働者の組合が結成され、19世紀半ばには、職業別の全国組合が結成されるなど、労働組合運動は一世紀かけて全米に広がり、1886年にはアメリカ労働総同盟(AFL)が組織された。
労働組合運動が欧米を中心に活発となるなか、1919年、ヴェルサイユ条約により「世界の働く人々のために社会正義を促進」する自治機関として国際労働機関(International Labor Organization, ILO)が創設される。国際労働機関の目的は、国際労働基準の策定と遵守の監視、および、労働・生活条件改善のための諸政策の国際的推進であった。そして、国際労働総会は、各加盟国の政府代表2名、労働組合代表1名、使用者代表1名から成っていた。いわゆる「政労使」の原型がここに形成されたのである。
一方、日本では、明治維新後(19世紀後半)の近代化政策とともに現れた工場労働者により初の労働組合が結成されたといわれるが、治安警察法など各種の法律により厳しく活動が制限され、違反者は刑罰に処せられた。1900年代から1910年代にかけて大規模なストライキや暴動が起こるなか、1912年、後の日本労働総同盟となる友愛会が結成され、日本の労働組合の源流ができあがった。日本労働総同盟は、分裂を繰り返しながら、巨大化していったが、産業報国運動が起こるなかで解体を余儀なくされた。なお、この間、農民運動も活発に行われたことも特筆すべきだろう。
日中戦争の開始にともない、労働運動は1937年7月を境にして、低調となり、争議件数も激減した。各組合が挙国態勢の強化に協力し、自発的に労働争議の制限や禁止を行ったため、労働組合の機能はほとんど停止するようになり、この傾向は第二次世界大戦中も続いた。
GHQ 時代
労働組合運動は1900年(明治33年)制定の治安警察法等により厳しく抑圧され、刑罰に処せられた。団結体に加入させるための暴行・脅迫・公然誹毀やストライキの誘惑・煽動が処罰の対象であったが、文言が曖昧であるため、実際には労働者の待遇改善のための行動のほとんどに拡張適用された(17条)。この規定は、1926年(大正15年)には削除されたが、同年制定の労働争議調停法のなかには、軍需工場または公益事業につき調停が開始した場合において、その争議に関係のない第三者が労働者をストライキに参加させるために誘惑・煽動をなすことを禁止する規定が設けられた。結局、労働組合運動は戦争直後に旧労働組合法が制定されるまで、法律によって抑圧されていたのだ。
日本がGHQの占領下となった1945年に制定された旧労働組合法は、刑事免責規定を設け、労働組合活動を擁護した。同法は、禁止される行為の狭さと救済の仕組みの不十分さを危惧したGHQによってアメリカのワグナー法の不当労働行為をモデルに改正された。こうして、新憲法のもとで労働者の労働三権が保障されるに至り、日本の労働組合運動は、急速に活発になっていった。GHQは、労働組合結成を容認かつ促進したが、それまで壊滅状態となっていたところから組合運動を進めていくためには、小規模な単位から組織化する必要があった。日本に企業別労働組合が広がったのにはこのような背景がある。
労働者は、敗戦と共に初めて自由を与えられ、次々と組合を結成していったが、1948年には飽和点に達し、その後は停滞と分裂を繰り返した。労働者の組合設立解散状況調査によると、設立組合数は1948年3月を頂点として次第に減少に向い、1949年の初めには1948年3月のほぼ3分の1になっている。これに反し1948年下半期から解散組合数はようやく顕著に増大していき、1949年4月にはついに設立組合数を凌駕するに至った。このため月末現在数も1948年下半期には停滞状態に入り、1949年3月の組合数36,481組合、組合員数6,752,735名を頂点として以後減少することになった。こうして労働者組織率も僅かながらこれ以後低下していった。また、GHQによる共産主義の排除「レッドパージ」も日本の労働運動に大きな打撃を与えた。(以上、日本労働年鑑1951年)
一方、世界でも、1945年を境として、労働組合運動に大きな変化が起こっていた。1945年2月、イギリス・ロンドンで38ヶ国の労働組合と、15の国際労働組合組織の代表が集まり、世界労組会議を開き、その決議によって、1945年10月、フランス・パリで世界労連が創立された。創立大会には、56ヶ国65組織、6,400万人以上の労働者代表が集まった。しかし、戦後の1947年、フランス、イタリアの労働総同盟に分裂が現れ、アメリカでも戦闘的だった産業別労働組合会議(CIO)の左派が追い出された。労働組合運動は、厳しい分裂の時期を迎えた。分裂の結果、労働者の労働条件は低下し、既得の権利は奪われていった。
高度経済成長期と春闘
戦後、日本の労働組合運動は、重要な産業に属する企業別組合で組織される単位産業別労働組合連合会(「単産」)により発展していったが、その一方で、統一の動きもあった。1950年の総評結成がその代表例である。
そんな中、1955年、各産業の労働組合が春季に一斉に賃金引き上げ要求を提出し、企業と交渉を行い、回答を引き出していくという「春闘」という方式が始まった。同年には、8単産(全国金属、電機労連、合化労連、私鉄総連、紙パ労連、炭労、電産、化学同盟)、73〜74万人の参加であったが、1956年の第2回春闘で官公労組を加えて一挙に300万人近い規模に達した。さらに、中立労連が一本で参加して総評とともに春闘共闘委員会を設立し、1961年春闘の参加者は約500万人に達した。「高度経済成長」を背景に、企業も名目賃金では一定の譲歩をし、インフレーションと「合理化」でとり戻すという方法をとったので、参加者の増加とともに賃上げ額も増加していき、春闘はわが国の労働組合運動のなかで定着していった。その一方で、同盟(1964年までは全労、総同盟)は、春闘に批判的な態度をとり、春闘が終った頃に、総評、中立労連の獲得した実績をみて資本に要求するやり方をとった。しかし、職場労働者の賃上げを求める声が強まり、安保闘争の翌年の1961年春闘には、同盟系の一部単産なども、時を同じくして賃上げ闘争を行うようになった。(以上、金属労組1979年)
この時代に起こったもっとも大きな労働争議は、1959年1月の三井三池争議である。高度経済成長下で石炭から石油へのエネルギー転換が進み、炭鉱経営が厳しくなり、三井鉱山が6,000名の希望退職を募る合理化案を発表したのだ。その後、4,580名の第2次案も出したが、希望者は少なく、会社は1,277名の指名解雇に踏み切り、ロックアウトを断行した。これに対して三池炭鉱労組も無期限ストに突入。結局、282日間に及ぶ歴史的大争議となった。
ベトナム戦争が勃発してから、労働組合は、ベトナム侵略に反対する闘いや沖縄返還闘争に取り組んだ。また、1973年のオイル・ショックによる大不況により、企業が残業切捨てによる賃金の減少、配転、出向、一時帰休、「希望退職」の募集、などの人べらしを実行するなか、労働組合は、革新政党や民主団体と力をあわせて、独占資本や自民党政府に対する抗議行動をつよめ、1973年秋から1974年はじめにかけては、商社の買いしめ売りおしみなどをきびしく追及した。
1960年代後半から労働争議の件数は増加しつつあったが、1970年代に入ってこれに拍車がかかり、オイル・ショック後の1974年年間争議件数は10,000件を超えるまでになった。特に、国鉄労働組合など公労協諸組合と私鉄総連などが交運共闘のゼネストをしばしば繰り返した。1973年、1974年がそのピークであったが、1973年には上尾で乗客の暴動も発生している。また、1975年11月の公労協によるスト権ストは、旅客列車14万本、貨物列車4万本の運休、影響人員1億5,000万人にも及ぶ大規模なものだった。公労協がこのストに敗北して以来、最高裁判所の公務員による違法ストに対する判決が厳しくなったこともあり、違法ストの数は減っていった。その後、国鉄の分割民営化による国労の衰退や、私鉄総連によるストライキなしの賃上げ交渉の一般化により、春闘につきものであった交運ストは姿を消した。
ナショナルセンター
1980年代半ばになると、労働争議の件数は大幅に減少し、労使関係は協調的な色合いを強めていく。そうした背景のもと、1987年11月20日、全日本民間労働組合連合会(略称「連合」)が発足した。当時の正式加盟単産数55、組合員数539万人で、総評を上回る最大組織となった。この「連合」発足は、日本の労働戦線の一大再編の重要な一段階を画するものといえるだろう。連合が結成される前、労働運動のナショナルセンターは、総評、同盟、中立労連、新産別の四つが存在していたが、1960年代から1970年代前半の労働戦線統一運動の挫折のあと、1970年代末から1980年代にかけて、新たな戦線統一・再編の動きが出始めた。連合の発足は、その動きが実を結んだものだった。連合の発足にともない、同盟、中立労連、新産別、総評の4つのナショナルセンターが解散し、連合へと統一された。(以上、日本労働年鑑1988年)。一方、1989年、左派勢力も連合に対抗して新しい全国組織である日本労働組合総連合会を結成し、日本には2つのナショナルセンターが存在することとなった。
労働組合の新しい形
労働組合組織率が低下の一途をたどり、労働組合はその存続をかけて、組合員を確保する必要性に迫られている。しかし、現在日本で主流となっている企業別組合だけではそれはもはや不可能といえる。なぜなら、雇用形態の多様化が進み、派遣労働者やパート労働者が増え、また、1社に専属しない自由業者、一般労働者を対象とする団体交渉になじまない専門職や管理職の立場にある労働者など、これまで組合が想定していなかった多様な労働者が非組合員となり労働市場にあふれている。労働組合は、このようなさまざまな労働者のための新しい形の組合を作っていく必要がある。実際、地域で誰でも加盟できる一般労組(ジェネラルユニオン)や、職業別組合(クラフトユニオン)の活動は活発になりつつある。また、2004年、日本で初めての派遣社員のための労働組合となる人材サービスゼネラルユニオンが設立され、注目を集めた。人材サービスゼネラルユニオンは組合員数約2万人でスタートし、派遣社員の就業環境の改善を目指して派遣社員の相談窓口や共済制度を設けるほか、複数の派遣会社と団体交渉を行っている。雇用形態の多様化、人材の流動化の流れは世界的に見ても避けられず、今後も新しい形の労働組合の需要は高まっていくに違いない。そして、インターネットという情報通信技術の発達により、こうした労働組合の今後も発展していくだろう。
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| (2006年10月20日再掲載) |
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