Column

人事部は、変化の潮目にある
入倉由理子

酷評された新しい芸術運動
フランスに起こった芸術運動、印象派の巨匠、オーギュスト・ルノワールが描いた『陽光のなかの裸婦』という作品がある。この裸婦の肌の、木漏れ日を浴びた影の部分に使われていた色は、紫や緑。伝統的技法では、肌の色のトーンを落とした同系色で描く。その枠組みから大きく外れた彼の作品は、「死体のようだ」という酷評を受けた。

厳密には印象派の画家ではないが、当時、前衛的な作品を数々発表していたエドゥアール・マネにも、こんな逸話が残っている。彼が描いた『草上の昼食』は、森の真ん中で着衣の男性に囲まれて1人の裸婦がいる、という衝撃的な作品であり、今も多くの人が立ち止まってじっくり鑑賞するオルセー美術館の至宝の1つだ。ところがこの作品は、当時の伝統芸術の守護神・芸術アカデミーが主催するサロンに出品したもののあえなく落選。一方、同じ年にサロンで高評価を得て、当時の君主・ナポレオン3世に買い上げられたのは、カバネルという画家の『ヴィーナス誕生』だ。この作品も『草上の昼食』同様、パリ・オルセー美術館に展示されているが、多くの人は認識せずに美術館を出てしまうし、「マネの作品より当時は高い評価を得た」ということ以外にこの作品が人の話題に上ることはほとんどない。

ご存知のように、「印象派」の「印象」は、クロード・モネの『印象・日の出』に由来する。輪郭をはっきり描かず、伝統的絵画の枠組みから外れた作品に対する批評家の揶揄から生まれた言葉だ。しかしながら、そうした揶揄を乗り越えて、当時の芸術アカデミーが牽引した伝統派と、印象派を中心とする新しい芸術運動のうちどちらが主流となり、人々の支持を得ていったかは言うまでもない。

その理由はさまざまあるが、絵画に求められることの変化が1つある。写真が徐々に一般的になり、19世紀の終わりにはリュミエール兄弟によって映画が発明される。写実性では勝ち目はないし、記録という役割も譲らざるを得ない。識字率が上がり、宗教の影響力も低減していくなかで、かつて教会のステンドグラスが担っていたような物語の伝承という役割も小さくなっていった。では、私たち芸術家は何をするのか。何を描くのか。印象派はもちろん、その後に続くナビ派、フォービズム、エコール・ド・パリといった多様な芸術運動は、こうした真摯な問いかけの所産である。

ど真ん中にいると、大きな変化すら見逃す
芸術の変化の潮目がいくつもあるなかで、印象派が分岐していくこの潮目が巨大であったことは議論の余地はない。時代を超えて俯瞰してみればそれは誰の目にも明らかだが、そのど真ん中にいるとその時代に深く擦り込まれた価値観から離れることは難しい。「肌の影の色は肌色を暗くした色に決まっている」と断定するように。マネよりもカバネルが評価されたように。

Works133号は、私たちが持つ「価値観」から離れようと、いくつかチャレンジをした。新卒一括採用、年次管理を特徴とする日本型雇用のなかで育まれた、「人事のプロセスごとに発生するタスク」ベースの日本企業の人事組織は、果たして今、有効だろうか。グローバル化の波のなかで、人事部の形やその役割も変化の潮目を迎えているのではないか。そんな疑問を投げかけたのが第1特集『人事部の、今、あるべき形』である。

そして、もう1つが連載企画『人事のジレンマ』の「目標管理制度 継続×廃止」だ。「目標管理制度は誰も幸せにしないことがわかっているけれども、代替する仕組みがないから続けている」というある企業の人事部長の言葉に触発されたテーマである。こうした声の存在が、人を評価する制度が変化の潮目を迎えている証左だろう。

両企画とも、先行企業の真似をしようという企画ではない。虚心坦懐に、今の仕組みは本当に時代に合っているのか。人と組織の成長を支援する仕組みになっているのか。読者の方々と、そんな対話をさせていただきたいと思う。

入倉由理子


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2015年12月22日